本堂(正堂)内部の仏の空間の内陣と信者の空間の外陣を隔てる境界は、密教寺院などでは厚い壁や戸の区切りがあるが、善光寺ではさほどの境界はなく、床(ゆか)の段差や天井がわの壁などが区切りになっている。やはり庶民参詣の寺のためであろう。ただし、内陣のなかの内々陣、瑠璃壇(るりだん)は高く、三卿の間(さんきょうのま)は須弥壇・仏壇となってさらに一段と高い。一般の信者は内陣に入れず、まして内々陣には入れない。このあたりには古代の金堂の精神を残していることになろう。
本堂内部は奥行きの深い縦長の平面をなすが、この縦長の平面が七つの部分空間に分かれる。正面(前面)から奥へとみていくと、以下のようである。
①吹き放しの間(ま) 正面(前面一間)の裳階(もこし)部分は、正面と東面・西面の三方に壁や扉も設けない吹き放しで、床は回り縁(えん)と同じ高さの板張りである。この回り縁の幅は八尺(約二・四メートル)とかなり広く、桂(かつら)と槻(つき)の板は五分厚(一五センチメートル)もある。ここは参詣者の集散、移動の空間であり、雑踏(ざっとう)の緩衝(かんしょう)地帯でもある。通路であるほかに善光寺諸行事の場所でもある。たとえば十二月の第二申(さる)の日になされる「御越年式(ごえつねんしき)」では、深夜二時半ごろ堂童子(どうどうじ)が白装束(しろしょうぞく)で如来や四門などに料理を供える「四門固(しもんがた)めの儀(ぎ)」をこの縁でおこなう。回り縁はまた、建築透視図的な魅力的な景観をつくりだし、善光寺の建築美の一環をなしている。正面の欄間(らんま)には菱格子(ひしごうし)の意匠があり、その内側の扉上には五体の懸仏(かけぼとけ)がある。
②妻戸 本堂の内部へ入ると、高い天井と太い円柱が構成するほの暗い大空間が広がり、人びとを独特の雰囲気のなかで敬虔(けいけん)な気持ちに引きこむ。
踏みいった最初の外陣のうち手前の部分、入り口から入って中央から西がわにかけて三間分のところは「妻戸台(つまどだい)」(畳敷きの高い台)がある。東西五・六メートル、南北四・五メートル。『一遍上人絵詞伝(えことばでん)』などに描かれる踊り念仏の舞台となったあの台だともいう。善光寺には妻戸とよばれる時宗の僧がいて、近世には時宗一〇坊が存在した(まもなく天台宗に改宗される)。応永七年(一四〇〇)におきた大塔(おおとう)合戦では、戦死者を弔(とむら)うため「善光寺妻戸時宗と十念寺(じゅうねんじ)(西後町)の聖(ひじり)がかけつけた」とある。善光寺では時宗の徒(時衆(じしゅう))を妻戸衆とよんでいたらしい。妻戸の語義は妻(端、隅)の戸であるから、時衆は本堂南端の出入り口の戸に関係する務めに従事していたのであろう。このような一遍いらいの系譜をひく時宗の僧がこの妻戸台を守り、念仏・納経していたものかと思われる。ただ、幾度も再建された宝永以前の善光寺本堂外陣に妻戸台が置かれていたのかどうかはまったく不明である。
③外陣 もともとは礼堂だったところ。奥行き四間とその奥の畳敷き(もとは板の間)までである。東西に脇向拝(わきごはい)に通じる大きな扉がある。多数の参詣者を入れるための空間で、まさに礼堂である。
④内陣 奥行き三間の畳敷きの間。外陣の奥でかつては「中陣」ともよばれ、「経の間(きょうのま)」ともいう。畳敷きは当初からのものである。東の壁面に地蔵菩薩(じぞうぼさつ)像、西に弥勒(みろく)像(古図には釈迦(しゃか)とある。現在の像の印相は阿弥陀如来の定印である)が内がわを向いて安置されている(記録によっては二体とも南を向いていたともいう)。正面の内々陣との境は中央三間は両折(もろおり)障子、その上に来迎(らいごう)二十五菩薩像がある。左右の間は舞良戸(まいらど)(後述)二枚で引き込み。上部の壁には百体仏がある。
⑤内々陣 奥行き三間で畳敷き。内陣より床が三〇センチメートル高い。側面の壁に連子窓(れんじまど)があり、内がわに障子を入れる。
⑥三卿の間・瑠璃壇 奥行き二間、幅三間。ここの右(東)の二間が「三卿の間(さんきょうのま)」(善光(よしみつ)の間)で、床はさらに七五センチメートルほど高く、後方の壇には木造の善光夫妻像と子の善佐(よしすけ)像(三卿像)を安置する。宮殿(くうでん)は寄棟造(よせむねづく)り。古図では壇の背後のみに高欄(こうらん)があった(右隅に多宝塔がある)。当初は三卿の間と瑠璃壇の周囲を一巡できたらしく、右まわりに巡ったようである。
守屋柱(もりやばしら)をはさんで左(西)は瑠璃壇(るりだん)(本尊の間)であり、その後方一間は床を高くしてカーテン状の錦の奥に宮殿を置き、その中に厨子(ずし)が置かれる(秘仏の阿弥陀(あみだ)三尊像を安置)。前面に階段九段がある。その前に高い灯明台(とうみょうだい)があり、灯明三基が置かれる。
右(東)手前に「戒壇(かいだん)」巡りの入り口がある(古図には「御台場入口」とある)。戒壇巡りの廊下は地覆(じぶく)材・横材を入れた羽目板仕上げ(現状)。出入り口の高欄の親柱(おやばしら)に柱頭が唐様(からよう)(禅宗様)の蓮華(れんげ)がしぼんだ形の逆蓮(さかさばす)、その高欄の一番上の横木(架木(ほこぎ))は蕨(わらび)状に曲がったものを取りつける。床下へくだる階(きざはし)は木製五段とある。今の戒壇は深さ二メートルほどあって五段で降りるのは無理だが、昭和五年(一九三〇)に戒壇を改造したというから、それまでは戒壇巡りの深さや巡る場所が異なっていたと思われる。
⑦背面裳階(裏堂、裏仏殿) 三卿の間・瑠璃壇の背後(東の間・西の間の背面)にあり、東の扉から入ると、三卿の間のうしろは高欄付きの仏壇になっていて、仏像が北向きに安置されている。東の二間は漆塗(うるしぬ)りの仏壇で、阿弥陀像、仁王像、荒神(こうじん)像、大黒天像、小像などがある。西寄りの瑠璃壇の背面は一間が黒漆塗りの観音扉になっている。この扉は毎年十二月二十八日の煤払(すすはら)いのときに開扉し、本尊厨子を礼拝する(避難路の確認でもある)。