三門の造営

595 ~ 597

善光寺は、三門(山門)・仁王門・経蔵などの造立(ぞうりゅう)を掲げて寺社奉行所の許可をとり、元文(げんぶん)五年(一七四〇)江戸で、寛保(かんぽう)元年(一七四一)には江戸・京都・大坂と三都出開帳(でがいちょう)をおこない、浄財一万六一七〇両を集め、開帳経費を差し引いて収益九八一四両を得た。これにより三門造営に着手し、延享二年(一七四五)八月に釿(なた)初めをおこない、寛延二年(一七四九)二月地形(じぎょう)始め、同年六月上棟式とすすめ、寛延(かんえん)三年(一七五〇)四月三日に落成、四月八日入仏式をおこなった。善光寺大工の島津宇右衛門が棟梁、同じく島津長兵衛が脇棟梁をつとめた。二人は竣工後、功績を賞され輪王寺門跡(りんのうじもんぜき)からそれぞれ「近江(おうみ)」「淡路(あわじ)」の国号を賜わっている。

 工事が完結したあとの寛延三年五月、担当者と大本願・大勧進の手代・代官が大勧進住職放光院へ提出した「楼門御建立(ろうもんごこんりゅう)勘定帳」(大勧進蔵。以下「勘定帳」と記す)には、かかった費用と建築様式が書かれている。

 三門の名称は室町時代の享禄(きょうろく)四年(一五三一)の指図(さしず)(設計図)では「楼門」だったが、この「勘定帳」でも「楼門」と書いている。

 さて、「勘定帳」にはついやした支出の明細が記されている。それによると、総支出は三七八八両余であった。このうち一〇二二両余は大工・木挽(こびき)・屋根方・穴掘り・張付師(ちょうつけし)・鉄具師(かなぐし)・塗師(ぬし)・杣(そま)・藁(わら)屋根葺(ふ)き・石工(いしく)といった諸職人への扶持(ふち)・作料であった。大工の延べ二万三〇二四人をはじめ、延べ総人数三万七八三〇人が働いている。それとは項目を別にして、鳶(とび)の者一万四五〇四人への賃金が三三六両余、また並日雇(なみひやとい)(日傭(ひよう))一万四二九六人への賃銭二三〇両余がある。このように人件費が大きな割合を占める。

 物件費では、栂(つが)大小角木一五四四本の代金七八〇両余、樫(かし)木・椹(さわら)木および苧綱(おつな)・竹・漆(うるし)代と旭山・大峯山松木根伐(ねぎ)り人足扶持の二六六両余、大小釘・鎹(かすがい)の代一七九両余、屋根葺き板代の一六三両余、敷石大小一〇三一枚の代金一三三両余、などが目立つ出費であった。

 材木は水内郡荒木村吹上(ふきあげ)(芹田若里)の平吉がおもに請け負い、屋根材は木曽の奈川(ながわ)村(南安曇郡安曇村)から買い入れた。購入のほかに、樫材一一二本、藁縄(わらなわ)一二八〇把(ぱ)の寄進があった。また、松材二〇七三本は寺領の旭山・大峯山から伐りだしたが、その人足五〇〇〇人ほども寄進であった。