三門(山門)造営に先だつ三都出開帳の目的には、三門のほかに仁王門(におうもん)・経蔵(きょうぞう)の再建も掲げられていたが、仁王門の完成は宝暦二年(一七五二)九月(後述)、経蔵は宝暦八年(一七五八)の完成とかなり遅れた。経蔵は宝暦五年四月八日釿(なた)始め、同八年七月十四日完成、安鎮式は翌九年三月十四日におこなわれた。その造営と建築様式については、「経蔵御建立勘定帳」(大勧進蔵)に詳しい。
経蔵建築の棟梁は善光寺大工の島津近江(おうみ)(三門建立の大工宇右衛門)・坂口甲斐(かい)である。坂口甲斐は歴代善光寺大工の三三代を称する。二八代坂口長大夫は寛文如来堂、二九代坂口伊左衛門は宝永本堂の大工棟梁であった。子孫は善光寺大工として東町に近年まで住み、四二代坂口森右衛門は明治十四年(一八八一)、発起人として健御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみことひこがみわけ)神社(城山の旧県社、水内大社)本殿脇に「木匠祖(もくしょうそ)神社」を建てる。
造営支出の総額は一四九〇両余であった。三門の場合と同様、諸職人への扶持・作料の支払い額がもっとも多い。大工延べ五五三五人・木挽(こびき)一六二八人・板割り一六四二人・穴掘り一三八人・帳付師二三人・杣(そま)一一人・石工(いしく)一七五一人・桶(おけ)屋八人への計四八三両で、さらに別口で鳶(とび)の者二六一三人への賃銭六七両余、並日傭(なみひよう)二一四五人への賃銭四一両余などもある。物件費の主なものには三四九両余の諸材木ならびに板品々代、一四八両余の柱石・敷石(しきいし)その他品々石代、七八両余の屋根葺き板代、七二両余の輪蔵(りんぞう)塗り彩色代、七一両余の宝珠露盤(ほうじゅろばん)代、三五両余の輪蔵滅金鉄具(めっきかなぐ)代などがある。なお、樫柱二本は寄進、旭山・大峯山から伐りだした松細木三二〇本と、その人足三五六人分が地元住民の寄進であった。
経蔵は、宝形(ほうぎょう)造りの建物のなかに回転する輪蔵を納める。「経蔵御建立勘定帳」により建築の様式をみると、まず基壇(きだん)は一五・七メートル四方で高さ九一センチメートル。ここに四二センチメートル四方の角敷石(かくしきいし)一〇〇八枚、三角石二五六枚、長さ九一センチメートル・幅三六センチメートル・厚さ一五センチメートルの地幅石(じぶくいし)・葛石(かずらいし)六八枚を敷きつめた。本堂・三門の基壇もそうだったが、四半敷(しはんじき)(方石を四五度方向に敷く)の敷石が美しい。四面にそれぞれ三段の石段がある。
建物は方一一・七メートルの宝形造りで、頂部に露盤付きの火焔宝珠(かえんほうじゅ)がのる。火焔宝珠は独特の意匠で周囲を圧している。石口から宝珠上端まで一七メートル、露盤は差し渡し一・九メートル、高さ一メートル、唐銅仕立てで紋所(もんどころ)八つをつけた。建物の中央の輪蔵の芯(しん)になる心柱(しんばしら)は、樫(かし)の丸柱で、長さ八・九メートル、周囲一・五メートル。心柱を支える礎盤石(そばんいし)は一・二四メートル四方、心柱受けの金物は唐銅仕立ての複弁式蓮華座(れんげざ)。建物の構造をつくる柱は樫の丸柱三〇本で、長さ四・九メートル、太さ一・一五メートル。これを支える柱石三〇個は五五センチメートル四方のものである。
八角形の輪蔵は胴の差し渡しが二・九五メートル、唐戸(からど)八戸が付き、なかに経箱引き出しが一九二個あって、その奥にまた六四個の引き出しがある。床(ゆか)組物は五段、春慶(しゅんけい)塗り(木地を黄か紅に着色し透明な漆を上塗りして木理(きめ)の美しさを出す)になっている。ここに黄檗版(おうばくばん)(鉄眼版)一切経(いっさいきょう)(大蔵経(だいぞうきょう))が納められている。五三センチメートルも横へ突きでた長い胴差し渡しを押すと回転する仕組みである。経蔵の開扉は、かつては春分・秋分の彼岸の中日で、このとき輪蔵をまわすことができた。一回まわすと経典すべてを読んだと同じ功徳(くどく)が得られるという。今は年間開扉されており、輪蔵は正月・盆・春秋の彼岸のみまわせる。天井は、外まわり一間が外陣(げじん)で鏡(かがみ)天井(天井が平らなもの)、内陣は格調の高い格(ごう)天井で溜(ため)塗りである。
屋根の坪数は三四三平方メートル、三門と同じ挧(とち)葺きで、葺き板の真椹(まさわら)板の寸法も三門と同じである。現在は槍皮葺きとなっている。軒は一重繁垂木(ひとえしげたるき)、出組(でぐみ)。「勘定帳」では「垂木軒先金箔置」とあるが、今は垂木の先端に飾り金物も金箔も見えない。隅木(すみぎ)の先端には、風鈴に似た唐金仕立ての宝鐸(ほうたく)計四つが下げられている。
立面の建築様式をみると、桟唐戸(さんからど)(桟と框(かまち)を組みそのあいだに板を入れる戸)が正面(東面)中の間三間と、南面と北面の中央一間の計五戸ある。裏面には中央に舞良戸(まいらど)一間。火頭窓(かとうまど)が正面と両側面(そくめん)に二つずつ、計六つある。火頭窓は曲線の美を生かす窓で、上部が円孤(えんこ)とS字曲線からなる。鎌倉時代に禅宗様式が流行するとともに寺院の窓にひろがった。この経蔵の火頭窓は凸部(とつぶ)が三個の曲線になっているが、三門二階の火頭窓は凸部二個のデザインであった。三門西に建つ応永四年(一三九七)の銘のある二基の佐藤兄弟供養塔(宝篋印塔(ほうきょういんとう))では、その火頭窓が西の塔のものが経蔵と同じ、そして東の塔のものが三門と同じデザインになっていて興味深い。火頭窓には金網を張りその内がわは板戸である。構造は下から順に地長押(じなげし)、腰長押(このあいだに窓がある)、内法(うちのり)長押、上部に頭貫(かしらぬき)、その貫が柱から突きでて拳鼻(こぶしばな)となる。全体に簡素な造りで、この拳鼻と火頭窓にのみ曲線が用いられ、唯一の装飾といえる。
なお、経蔵内部には、正面東向きに輪蔵を創始した傅大士(ふだいし)(傅翕(ふきゅう)。中国の僧、四九七~五六九)とその子普建(ふけん)・普成(ふせい)の三体像をまつるのをはじめ、多くの仏像(木造)が安置されている。建築のあらましは以上のようである。