鐘楼

603 ~ 605

鐘楼(しょうろう・しゅろう)とはむろん鐘撞堂(かねつきどう)のことである。楼はほんらい重層の楼閣(ろうかく)造りをいうが、善光寺に限らず単層のものでも鐘楼とよんでいる。今の鐘楼の位置は本堂の斜め前方、東南にあり、かなり高い石垣(基壇)の上に立つ。それ以前の鐘楼は、宝暦三年(一七五三)に棟梁島津近江(おうみ)と島津淡路(あわじ)(三門と同じ)が建てた。しかし、この宝暦鐘楼は破損し、嘉永(かえい)六年(一八五三)に再建された。

 鐘楼に吊(つ)る梵鐘(ぼんしょう)は、鎌倉時代のものは武田信玄が甲府善光寺へ持ち去った。江戸初期の寛永九年(一六三二)に高橋白蓮(びゃくれん)が本願主となり伊藤孫兵衛金次が鋳造したが、破損してしまった。そこで寛文六年(一六六六)、白蓮ら五人が願主となって寄進を募った。北国街道沿いや江戸から沓掛(くつかけ)宿(北佐久郡軽井沢町)にいたる中山道(なかせんどう)沿いの人びとなどから浄財を集め、伊藤文兵衛金正の鋳造によってできたのが、現在の鐘である。高さ一・八メートル、口径一・一六メートルある(重要美術品)。


写真6 鐘楼(東面と南面)

 現在みるように嘉永再建の鐘楼は、入母屋(いりもや)造りで棟は南北、撞座(つきざ)は北側にある。基壇が高いため、木造の階段を設けてある。柱が内転びに六本立つ特異な形をしている。これは構造上、四隅の柱にたいし東西面真ん中の柱は鐘を吊る梁(はり)を直接受ける柱であり、合理的な形といえる。しかし、後年、撞座の上部に「南無阿弥陀仏」と陽刻してあることから、六本の柱は六文字の念仏名号をあらわすと信じられるようになった。

 下から見あげると梁に蔓草文様(つるくさもんよう)が流れるように刻まれ、出組(でぐみ)の軒は蟇股(かえるまた)があり、その上部に板支輪(いたしりん)、瑞雲(ずいうん)がほどこされている。さらに二重半繁垂木(ふたえはんしげたるき)が放射状になっていて華やかである。仰ぎみると、内転びの柱とこの垂木の並びがなんとも美しい。装飾は少ないが、六本の柱には四方を向いた掛鼻(かけばな)がある。さらに南・北面では中央の束(つか)にも掛鼻がある。掛鼻とは貫(ぬき)先端の彫刻(木鼻)とは別材で彫刻した飾りを柱のホゾ穴へ掛ける木鼻をいう。各面三個ずつなので、その阿(あ)・吽(うん)の並びがややこしい。東面でみると、隅柱に東を向いて唐獅子(からじし)が阿(東北)・吽(東南)、中央の柱上には阿形(あぎょう)の象がある。よってこの逆の西面中央には吽形(うんぎょう)の象がある。つぎに南面の隅の柱には唐獅子が東に阿形、西に吽形(唐獅子は向かって右に阿、左に吽となる)。中央の束の上には麒麟(きりん)の阿形、したがって反対側の北面中央には吽形の麒麟がくる。こうして、南と東が阿(陽)、西と北が吽(陰)の陰陽説による阿吽の配置である。全部で一二頭の掛鼻(木鼻)であるが、これら一一頭は阿・吽の別こそあれ、姿勢はほぼ同一で前足をそろえたポーズだが、北面の東北隅の吽形唐獅子だけが左手を挙げて口のなかへと突っこんでいる(図15)。どのような意味の意匠か判然としないが、その口のなかに手を入れてみるとツルツルと滑らかに仕上げをしてあるのは一驚であった。下から絶対に見えない部分でも手抜きは決してしない大工の心意気が感じられる。


図15 鐘楼東北の木鼻 1頭のみ、前足を口に当てている(吽形)