善光寺参道を大門町までくると、最初に二天門(にてんもん)(四天王のうち二像を安置する)があった。いま長野市道路元標(げんぴょう)があるあたりである。そこから本堂へ向かうと参道から一段高い位置に現仁王門がある。この地は中世から寛文如来堂(本堂)のときまで仁王門があった位置である。仁王門近くの北方から古代瓦が出土しているので、古代からなんらかの堂舎が存在した地と考えられる。
仁王門は宝暦二年(一七五二)に再建されたが、弘化四年(一八四七)の善光寺大地震で焼失した。宝暦仁王門の姿は、権堂村名主永井幸一の記した『地震後世俗語之種』のなかにみられる。低い基壇の石敷の上に建ち、単層切妻造り三間一戸(正面三間、中の間が通路、奥行き二間)瓦葺きで、仁王像が前面の脇間にみえる。
幕末の元治(げんじ)元年(一八六四)、柏原(かしわばら)宿(信濃町)の間屋中村六左衛門らの寄進で再建工事がはじまった。仁王門裏面に安置する大黒天・荒神(こうじん)は木綿仲間の寄進、その材木は戸隠から寄進された。慶応元年(一八六五)六月仁王像が江戸から到着。解体して運ばれてきたものを小市(こいち)(安茂里)の酒屋で組み立てた。六月二十日から仁王門完成回向開帳(えこうかいちょう)がおこなわれた。作者は江戸谷中(やなか)の春朝大仏師、作料二三二両、運賃のほうが多くかかって三〇九両であった。仁王門再建の総経費は五九二〇両。単層切妻造り、瓦葺きで、唐破風(からはふ)はついていない。高さ一六・九メートル、間口一四・三メートル、奥行き七・六メートルであった。
この仁王門も明治二十四年(一八九一)の火災で焼失した。現仁王門は大正七年(一九一八)完成、三月三十日に落慶式がおこなわれている。仁王像は大正八年五月十日に安置された。高村光雲(こううん)・米原雲海(うんかい)の作である。再建費は全額を東筑摩郡山形村の永田兵太郎が寄進した(『市誌』⑥五章六節参照)。