中世の善光寺五重塔は、史料上、嘉禎(かてい)三年(一二三七)の落成をはじめとして、焼失・再建を繰りかえしたことが知られている『市誌』②二章、小林計一郎『善光寺史研究』参照)。慶長二年(一五九七)の「善光寺参詣曼荼羅図(まんだらず)」(大阪府藤井寺市 小山善光寺蔵)は、室町時代末ごろのようすを復元的に描いたものとされているが、五重塔も描かれている。しかし、五重塔はその後の史料には出てこず、川中島合戦のころにはすでに失われていたと考えられる。豊臣秀頼以降に数度おこなわれた本堂再建のさいにも、五重塔までは手がまわらなかった。
安永七年(一七七八)大勧進住職香雲(こううん)は五重塔再建を発願(ほつがん)し、寺社奉行所の許可を得て六月一日から三〇日間江戸回向院(えこういん)で出開帳をおこなった。つづいて回国開帳をおこない、九年に二月の京都を手はじめに大坂、東海道、天明元年(一七八一)から二年にかけては江戸、奥羽を巡国したが、二年六月越後十日町(新潟県十日町市)で亡くなった。同年十月、つぎの住職等順(とうじゅん)が香雲のあとを継ぎ、香雲の集めた浄財で本堂を修理した。ついで香雲の遺志をつぎ回国開帳を続行し五重塔を建てる許可を得、寛政六年(一七九四)北陸道をへて西上し、中国・四国・九州を巡って同十年に終わった。翌十一年回国開帳終了の回向(えこう)(居開帳(いがいちょう))をおこなった。
これより先、諏訪の宮大工立川和四郎富棟(とみむね)の手で大勧進表門(おもてもん)が寛政元年にできていたが、その富棟に五重塔設計を依頼し、設計図は寛政八年に完成した(大勧進蔵)。できあがった図面によると、高い二重の基壇の上に建ち、その姿は江戸時代の塔らしく逓減率(ていげんりつ)が小さい。三間の塔で、中の間は桟唐戸(さんからど)、脇間は格子窓(こうしまど)がつく。蟇股(かえるまた)や木鼻(きばな)があり、尾垂木(おだるき)には龍の顔がつくなど華やかで、上層には高欄がつく。また、珍しいことだが、初層の正面屋根に唐破風(からはふ)がつけられていた。高さ一四丈余(約四二・四メートル)、方七間(約一二・七メートル)、工費見積もり約一万六〇〇〇両という規模のものであった。
しかし、出開帳のときに「五重塔再建」を承認していた幕府は寛政十三年、「古礎(こそ)不分明」という理由で五重塔建立を不許可とした。江戸幕府になってから焼亡した伽藍(がらん)の復興は認めるが、それ以前にすでになくなっている建物の再建は認めないという方針による。こうして五重塔はまぼろしに終わり、集めた資金は大勧進の祠堂金(しどうきん)に繰り入れられた。