旧横田家住宅

617 ~ 619

松代城下の武家屋敷で重要文化財に指定されているものに、旧横田家住宅がある。横田家は知行高一五〇石ほど、郡奉行(こおりぶぎょう)などを勤めた。その屋敷は一八世紀末ごろ、馬場町から拝領屋敷替えにより代官町へ移ってきていらい、横田家が住んだ。重文指定対象は、主屋(おもや)・表門・隠居屋・土蔵二棟の五棟で、附(つけた)りとして板塀(いたべい)(表門東方一〇・五メートル)も加えられている。敷地面積は一五七九平方メートル(約四七九坪)あり、屋敷の背後の約半分は畑として使われていた。江戸末期の横田家をしめす絵図があるが、現状と比較すると、主屋の右手にあった馬屋をふくむ建物と三棟の土蔵のうち一棟が失われているが、そのほかはよく残っている。主屋の建築年代は、解体修理工事のさい発見された柱上部の墨書(ぼくしょ)に寛政六年(一七九四)とあり、様式からみてもこのときのものである。隠居屋・表門・土蔵は様式上、ややあとの一九世紀初頭の建築と推定されている(口絵参照)。

 主屋は、桁行(けたゆき)一七・一メートル、梁行(はりゆき)九・六メートルの寄棟(よせむね)造り、茅葺(かやぶ)きで、前面の玄関部分と背後中央部が突きでた屋根になっている。風呂場一、便所二があり、屋根裏に一〇畳の部屋が設けられていた。当初の間取りは、その後明治維新ごろまでに改造の手がかなり加わっており、玄関脇の三畳、背後の六畳、湯殿などの増築、台所や階段の改造などが見うけられる。しかし、玄関から座敷にかけては改造が少ない。間取りの構成(図18)は、接客空間として玄関(八畳)、客待の間(八畳)、座敷(一二畳)がある。座敷のほか、客待にも床(とこ)の間(ま)がある。客待の背後の八畳間は、中床(なかどこ)(下半分が押入れになっている略式の床の間)があり、主人の居室であろう。それにつづいて増設された六畳間は戸棚があって夫人の居室らしい。居間は一五畳あり、隅に二階への階段がある。台所はぜんぶ板の間で、床(ゆか)の上に流しが置かれていた。


図18 横田家主屋平面図  (『県史』美術建築資料編)

 主屋の左がわにある隠居屋は、桁行七・七メートル、梁行四・六メートル。庭に面した八畳の座敷と六畳の次の間があり、その北側に台所が突きでていて、棟は丁字型になっている。表門は、桁行一六・四メートル、梁行六・三メートルの長屋(ながや)門で、切妻造り、桟瓦(さんがわら)葺きである。改造が多いが、もとの間取りは向かって左がわが一〇畳の広さの土間の物置、右がわが八畳間二室で、ここは中間(ちゅうげん)部屋などに使われたものらしい。土蔵二棟は、土蔵造り、切妻造り、桟瓦葺きである。

 なお、以上のほかに、史跡に指定されている旧文武学校があり、また市指定文化財に武家屋敷の旧臼井(うすい)家表門・矢沢家表門があり、高義亭(こうぎてい)、旧松代藩鐘楼(しょうろう)などの建造物もある。