年代による造立数の推移

620 ~ 621

長野市内にある石造物については、昭和五十二年(一九七七)から五十七年にかけて「郷土を知る会」によって悉皆(しっかい)調査がおこなわれ、『長野市の石造文化財』として五冊の報告書にまとめられている。報告書によると市内には九九九九基、一一二種もの石造物が建てられており、このうち記年銘が刻まれたものは四一七七基にのぼる。これを一〇年ごとにまとめてその推移をみると、市内では一六二〇年代銘の石造物を初見に、年々造立(ぞうりゅう)されていくが、寛政期(一七八九~一八〇一)以降その数は急激に増加し、一八一〇年代には一〇年間で四〇五基が建てられ、そのピークを迎える。その後、造立数は少なくなるが、いずれも寛政期以前の造立数を上回っており、近世後期から石造物の造立が盛んになっていく全国的な傾向と軌を一にしていることがわかる(図19)。


図19 記年銘のある石造物数
  (『長野市の石造文化財』長野市教育委員会1~5集により作成)

 全体的な傾向は図19のような右肩上がりとなるが、細かくみていくとまた違った傾向が見いだせる(図20)。たとえば石造物の種類別にみてみると、庚申塔(こうしんとう)は一六五〇年代という早い時期から造立され、以後もコンスタントに造立されていく。なかでも元文五年(一七四〇)、寛政十二年(一八〇〇)、万延元年(一八六〇)の年に数多くの石碑が建てられているのが特徴である。庚申塔は庚申信仰にもとづいて建てられ、庚申信仰は地域の庚申講によって支えられている。庚申講は庚申(かのえさる)の日に講を開くなど、庚申の日や年を重視する。造立数の多いこれらの年はいずれも六〇年に一度の庚申の年にあたり、それを記念して各地で庚申塔の造立がおこなわれたことを示している。庚申塔のように、ある年に限って急激に数が増加する傾向は、「南無阿弥陀仏」の六字名号(みょうごう)が刻まれる念仏塔にもみられる。念仏塔は文化十三年(一八一六)に数多く建てられるが、これは徳本行者(とくほんぎょうじゃ)の信濃巡錫(じゅんしゃく)の影響によるものである。このほか地蔵菩薩像は一七一〇年代がもっとも造立数が多く、以後減少していく傾向をしめし、石造物全体とは反対の傾向を示している。


図20 記年銘のあるおもな石造物の造立数  (同前書 1~5集により作成)