市域の庚申塔

621 ~ 624

市内ではオカノエ(庚申)講とよばれる集まりが、今も多くの地域でつづけられている。オカノエ講は中国に伝わる庚申信仰にもとづいておこなわれる集まりである。庚申信仰とは一般的に三尸(さんし)説(三虫説)で説明され、道教の影響が強いといわれる。日本へは奈良時代のころに伝わるが、庶民のあいだに広まるのは江戸時代のことである。その主尊は一定しておらず、さまざまな神仏があげられている。古いころは、地蔵菩薩や阿弥陀三尊なども庚申の主尊と考えられ、それらの像を刻んだ庚申塔もみられるが、一般には憤怒相(ふんぬそう)で悪鬼を踏みつぶし六本の手をもつ青面金剛(しょうめんこんごう)とされることが多いようである。その他神道の影響で猿田彦神をまつる場合もみられる。庚申塔は庚申信仰にもとづくもので、個人ないし庚申講中によって建てられる石造物である。そのため青面金剛の像を刻むものや、猿田彦神の字を刻んだ文字碑、また庚申の申の字にかけて猿の像を刻むもの、庚申の文字を刻んだ文字碑などが庚申塔とよばれる。

 『長野市の石造文化財』によると市内には七九九基の庚申塔が存在している。そのなかでも六〇年に一度の庚申の年に建てられたものが多いことは先にも述べたが、元文五年(一七四〇)以前にはそのような傾向はみられず、元文五年の六〇年前にあたる延宝八年(一六八〇)にはわずか三基しか建てられていない。庚申の年に石碑を建てるという習俗は元文五年からのものであったようである。逆に元文五年以前では、庚申年ではない慶安三年(一六五〇)に九基もの庚申塔が建てられており、それがまた近世における市内の庚申塔の初出であることは市内の庚申塔のひとつの特徴でもあろう。

 庚申塔の形態は、市域では石の祠(ほこら)の形をして正面に日月・二鶏二猿あるいは二鶏三猿を浮き彫りにした石祠(せきし)型庚申塔とよばれる形と、庚申と刻まれた文字碑とが多く、庚申講の掛軸に多くみられる青面金剛の像は、石造物として彫られることは意外に少ない。市内に多くみられるこの二つの形態は出現時期に明確な差があり、元文五年を境にそれ以前が石祠型庚申塔優越期、以後が文字碑優越期に分けることができる。庚申年である元文五年以降に文字碑が急激に建てられるようになるのは、庚申年に石碑を建てるという習俗が広まり、短期的に増加した石碑造立の需要に対応した形として、石祠にくらべて手間や時間をかけずに造ることができる文字碑が好まれたためと考えられる。

 庚申塔の古い形である石祠型庚申塔は、神奈川・群馬・長野および新潟の四県という限定された地域にみられる形態だが、神奈川・群馬のものが屋根の形を流造(ながれづくり)とする神道系統であるのにたいして、長野のものは屋根が宝塔(ほうとう)や入母屋(いりもや)型が多く、仏教の影響が強いといわれる(清水長輝『庚申塔の研究』、『長野市の石造文化財』)。石祠型庚申塔のもう一つの特徴は、祠の内部に小さな石仏が納められていることである。祠のなかの石仏は大きく分けて一体が納められている場合と、三体がセットになって納められている場合の二つに分けることができる。その石仏はどれも技術的には彫りが荒く、稚拙(ちせつ)で素朴なものであるため、像容から仏尊名を明らかにすることはむずかしいが、一尊の場合は地蔵ないしは阿弥陀如来、三尊の場合は阿弥陀・勢至・観音の弥陀三尊仏ではないかと考えられている。そのなかでも三尊仏を納めた石祠は、一尊の石祠にくらべ造立時期が古く、善光寺平周辺に多くみられる。


写真11 慶安3年(1650)の庚申塔
(長沼大町 林光院境内)
  (長野市博提供)