集落の境や、辻にあって外界からの災厄(さいやく)を防ぐとされる道祖神の石碑は、集落形成当初から存在していたように思われがちだが、じっさいのところは庚申塔の出現から五〇年を経過した元禄十六年(一七〇三)銘の芋井にある道陸神(どうろくじん)宮(入母屋(いりもや)型石祠)のものが市内ではもっとも古く、道祖神信仰と石造物造立がかならずしも並行した形で発展してきたのではないことをしめしている。
道祖神碑の形態は、およそ文字碑・双体道祖神・自然石・石祠・陰陽石の五種に分けられる。形態別にその数を数えると、市内の道祖神四九三体中、三一四体ともっとも多いのが文字碑であり、これにつぐ双体道祖神碑の数は文字碑の二五パーセントにも満たない。しかし、その造立年代は、文字碑が一七八〇年代以降に出現し、一八五〇年代から六〇年代の幕末期に造立数のピークを迎えるのにたいし、双体道祖神碑は文字碑出現以前に造立されたものが多く、双体道祖神碑のほうが市内の道祖神碑の古い形であることがわかる。しかも、文字碑と双体道祖神碑の分布は地域的にかたよりがみられ、善光寺を中心とする善光寺平の平野部の道祖神は大半が文字碑であるのにたいし、双体道祖神碑は若穂・芋井・松代・七二会(なにあい)・浅川などに多く分布している。さらに各地区の道祖神碑数における双体道祖神碑の占める割合は、若穂・芋井・浅川・七二会の順に大きく、長野盆地周辺の中山間地域に双体道祖神碑をつくる傾向がみられる。
双体道祖神といえば、造形的に優れたものが多いことで知られる松本・安曇地方のものが有名である。『まつもとの石造文化財』によると、松本市の双体道祖神は寛政・享和・文化年間に造立のピークを迎え、記年銘のある七一体のうち四四パーセントにあたる三一体がこの時期のものだという。これは長野市で双体道祖神にかわって文字碑が多くなる時期と重なり、双体道祖神碑の年代推移は長野市と松本市で逆の傾向をしめしている。道祖神の像容も、松本市のものは、男女の道祖神の姿や動作、道祖神の背景となる部分に非常に技巧をこらしているものが多いのにたいし、長野市のものは男女間の動作が少なく、姿も素朴なものが多く、造立の年代や形態において相違点がみられる。
『長野市の石造文化財』によると、長野市内にみられる素朴な双体道祖神は千曲川をくだり、新潟県をへて福島県只見(ただみ)町にまで分布しているところから、北信地域がこの道祖神の伝播(でんぱ)流布の中心であったのではないかと推測されている。現段階でそのことを証明することはできないが、少なくとも、同じ双体道祖神でも松本平とは異なる文化が北信地域に存在していたことは確かであろう。