岩船地蔵の流行

628 ~ 631

若槻田子の北国街道沿いに建てられた地蔵菩薩は、台座が船の形をしており、その上に坐像の地蔵菩薩が正面を船の進行方向に並行にして乗るという一風変わった姿をみせている。その台座の形から岩船(いわふね)地蔵とよばれるこの地蔵菩薩像には、背面に「享保四亥天 石船地蔵」と刻まれており、地蔵の造立年代を知ることができる。

 この岩船地蔵のある場所から、北国街道を南に数百メートル行ったところにある国胎寺(こくたいじ)の境内にも、同様に船に乗った地蔵菩薩像が建てられており、やはり背面に「享保四亥天 岩船地蔵大念仏 利益□□□□」と刻まれている。若槻にはもう一体、同様の地蔵菩薩が存在している(表1)。


表1 享保4年(1719)の銘のある地蔵菩薩

 これら三つの地蔵菩薩像は、享保四年(一七一九)に信濃・甲斐・駿河(するが)・相模(さがみ)・武蔵にかけて流行した、栃木県下都賀郡岩舟町にある高勝寺の岩船地蔵を対象とする信仰によって建てられたものである。岩船地蔵の流行については、当時の文献や流行地域に存在する石造物から検討を加えている福田アジオ「近世中期における流行神仏の巡行と村落」に詳しい。それによると、享保四年の岩船地蔵の流行は、船に乗った地蔵が各村に巡行したことによって起こった流行神(はやりがみ)現象であった。岩船地蔵が村に来ると、村人は地蔵を華やかに飾り立て地蔵念仏を唱え、念仏踊りを踊りながら地蔵を奉じて村内を巡り、数日経つと地蔵をつぎの村に送ったという。そして地蔵を送りだした村では、岩船地蔵巡行の記念にその姿を写した地蔵像を建立した。

 ところで享保四年から五年にかけての短い期間で、五ヵ国にまたがり岩船地蔵の流行がみられたということは、巡行した岩船地蔵が高勝寺から出発した一体だけではなかった可能性をしめしている。このことについて福田氏は、瀬下敬忠(せじものぶただ)の『こよみぐさ』(明和四年、一七六七)にある岩船地蔵流行のようすについて記された部分の「本尊は当時手前勝手に御座候也、地蔵尊を輿(こし)に入れかつぎはやしたてあるき申し候」を引き、ほんらい巡行されるべき地蔵が自村内の地蔵で代用され、念仏をともなった祭りの喧騒だけが順々に送られたケースも多かったのではないかと指摘している。

 市内には先にみた三体以外にも、岩船地蔵という名称はもたないが、享保四年の銘と地蔵念仏の文字を刻む地蔵がいくつか存在する(表1)。これらの石仏は岩船地蔵の名称も、石の船に乗るという形態もとっていないが、巡行した地蔵がかならずしも岩船地蔵の形態をとっていなかったという福田氏の指摘を踏まえれば、表にあげた一連の石仏も、おそらくは岩船地蔵の流行によって建てられたものと考えられる。

 岩船地蔵という名称の有無にかかわらず、享保四年銘のある石地蔵を岩船地蔵流行によって建てられたものとすると、同様の石仏は県内に広く存在しており、岩船地蔵の流行の広がりや、いかに人びとがこの信仰に熱狂したのかを推測することができる。それでは民衆のこの動きにたいし、ときの支配者はどのような対応をとったのであろうか。残念ながら岩船地蔵の流行に関する文字史料は少なく、市域には残されていないため、東筑摩郡明科町の関家に残る史料によってみていきたい。

 江戸時代、松本領筑摩郡麻績(おみ)組の組手代であった関家には、当時の行政文書(もんじょ)が多く残されている。そのなかに享保四年五月十四日の日付で麻績組内の村々が、いっせいに組手代関七右衛門にあてた一札がある。文言(もんごん)や細かい箇所に多少の差異がみられるが、その内容はどれも同じである。典型的なものとして大足(おあし)村(東筑摩郡明科町)の文書をみてみよう。

 「岩舟地蔵念仏にいっさい出かけないように、前々から堅く仰せ付けられ、郷中へも申し渡し遵守(じゅんしゅ)してまいりましたが、このたびまたまた仰せ付けられました。すべて女・子供にいたるまで、地蔵念仏の真似や口ずさむこともいけないと申されました。もし、この御法度(ごはっと)に背いた場合、またはそのような真似をしたとお聞き及びの場合は、如何様(いかよう)に仰せ付けられても致し方ありません。そのときは一言のお恨みも申しません」と庄屋・組頭・長百姓の連名で松本藩に一札を出している。

 これによると、岩船地蔵念仏が以前より禁止されていたこと。そして、地蔵念仏の真似はおろか、口ずさむことも決しておこなわないと、いささか過剰に思えるほどの誓いをたてている。なぜ、この時期にこのような一札を出させたのか、田沢村(南安曇郡豊科町)の享保四年五月の松本藩あての一札でその事情がうかがわれる。

地蔵念仏が岡田山通りから牛伏寺(ごふくじ)へ抜ける形でおこなわれ、そのうえ、このごろ女・子供まで地蔵念仏の真似を致し、村中が騒がしくなったとお聞きに及んでいるということですが、当村は御法度の仰せ付けを堅く守り、一人も御法度に背くような者は出しておりません。また、岩舟地蔵の口まねを致す者もおりません。今後も女・子供が口ずさみ真似ごとを致すようなことをしてはいけないと申し渡します。

 このように各村が一札を出す五月十四日以前に、じっさいに岩船地蔵念仏が松本の北から盆地の東がわを通って南へ抜ける形でおこなわれたため、再度領内の村々に地蔵念仏をしないとの一札を出させたものと考えられる。しかし、塔之原村(東筑摩郡明科町)の四歳から一五歳の子ども九人が、夜に地蔵念仏の真似をしているところを見つかり、年長の二人が御蔵込めになるところを許してもらったことにたいするお礼の文書が五月二十六日付けで塔之原村より出されているところをみると、地蔵念仏にたいする人びとの熱狂は、藩の禁制によって冷めるものではなかったことがわかる。

 岩船地蔵念仏にたいする禁制が松本藩だけのものだったのか、この史料からは判断できないが、じっさいに文書が残っている明科町をふくめ、松本領に岩船地蔵の石造物が極端に少ないところをみると、岩船地蔵念仏にたいする禁制は松本藩だけのものであった可能性も考えられる。

 いずれにせよ、享保四年に流行した岩船地蔵念仏は、長野市域では石造物が造立されるほど、松本市域では禁制が出されるほど、人びとの心をとらえていたことがわかるのである。