享保四年(一七一九)の岩船地蔵のように、神仏が一時的に爆発的な信仰を得ることを流行神(はやりがみ)とよぶのならば、文化十三年(一八一六)に信州へ念仏教化のために来た徳本上人にたいする人びとの熱狂的な信仰のようすは、まさに流行神現象といえるだろう。
長野市域には、独特の書体で「南無阿弥陀佛」と刻まれた念仏塔が多くみられるが、これが徳本行者の六字名号塔とよばれる石碑で、特徴のある「南無阿弥陀佛」の文字は徳本上人の手になるものである。徳本上人は浄土宗の捨世派とよばれる念仏修行をもっぱらとする僧の一人であった。捨世派は、世俗の名利を望まず、ひたすらの念仏修行と、民衆への念仏の教化活動をおこなった僧侶のことを指し、徳本のほかには、作仏聖(さくぶつひじり)であった弾誓(たんせい)や木喰山居(もくじきさんきょ)なども捨世派とされる。
徳本上人は宝暦八年(一七五八)紀州(和歌山県)で生まれ、文政元年(一八一八)六一歳で亡くなっている。徳本が信州へ来たのは文化十三年、晩年に近いころであった。このころには徳本は念仏行者として江戸でも名声が高まり、文化十一年には江戸小石川にある一行院の住職に推され、中興開山となっている。江戸においてすでにその名をとどろかせていた徳本上人を迎えた信州では一四〇日間の滞在のうちに、小型名号札だけで二〇万枚近く配られるなど流行神と同じ様相を呈していた(関保男「徳本上人の信州巡錫」)。そして徳本上人にたいする熱狂的信仰の証(あかし)としてつくられたのが、六字名号塔である。文化十三年から十四年までに造立された六字名号を書き上げた「徳本行者諸国名号石記」(以下「諸国名号石記」)には、信濃をふくめ二一ヵ国にわたり三五六基の名号塔が記されているが、そのうちの一八一基もの名号塔が信濃にあり、文化十三年の巡錫(じゅんしゃく)が信濃の人びとに念仏信仰を広めたことがわかる。
現在、市域にも、「諸国名号石記」に載せられた四八基をふくめ、七〇基の名号塔が残されている。「諸国名号石記」よりも数が多いのは、「諸国名号石記」が書かれた以後にも造立がおこなわれているためで、若里南市(みなみいち)(芹田)の仏導寺にある名号塔などは、徳本が信州へ来てから三〇年後の弘化三年(一八四六)に建てられるなど、徳本が信濃にもたらした念仏信仰が一時的なものではなく、人びとのあいだに根づいていたことがわかる。徳本上人より名号札をいただいて念仏講を始めるところも多かったようで、現在市域に残る念仏講には徳本上人の六字名号を掛軸にして、お祭りをしているところも多い。掛軸のなかには真島本道(更北真島町)の最明寺や松代新馬喰町(松代町)の念仏講に伝えられる徳本上人の椅座(いざ)像が描かれている掛軸や六字名号が放射状に一〇遍記されている乗福寺東組所蔵の掛軸など変わったものもみられる。東組の掛軸には、放射状にのびる六字名号の下に念仏の功徳(くどく)が書き記されており、そこには徳本上人の念仏が雷除けなどに功徳があると説かれている。徳本上人の念仏に極楽往生だけでなく現世利益(げんぜりやく)の意味を込めていたことがわかる例である。