これまでは石造物について、石造物をまつる人びとのがわから、おもに石造物にたいする信仰の面についてみてきたが、つぎに、こういった石造物をつくった作り手のがわから石造物をみていこう。
江戸時代、石工(いしく)として名を馳せたのが、守屋貞治(もりやさだじ)をはじめとする高遠石工である。高遠では藩の奨励もあって石工が他国に出稼ぎに出て数々の石造物を手がけた。高遠の石工が有名であるのは、その手になる石造物が優れていたのはもとより、その石造物に「高遠石工 某」とその名を刻んでいるためであろう。一般に石工に限らず、職人が自分のつくったものに名を刻むことはまれである。
市域にも石工の名が刻まれたものがいくつかみられるが、その数は市域にある石造物数の一パーセントにも満たない。そのなかにあって高遠周辺の出身地ないしは高遠石工と銘を刻んでいるものは、石工名が刻まれた石造物の四分の一にものぼる。このように高遠石工が作品によくその名を残すのは、作品にたいする自負心とともに、高遠出身であることがひとつのステータスとなるほど、高遠石工という名がブランド化していたためと考えられる。
ところで市域にある石工名が刻まれた九七基の石造物について、その傾向をみてみよう(表2)。石工名のある石造物は、その石工の出身地ごとに前述した高遠石工、善光寺周辺の石工、その他の石工の三つに大きく分けられる。石工名がはじめて刻まれるのは、元文四年(一七三九)に建てられた松代町柴(しば)にある山本勘助の墓の供養塔であり、やはり高遠石工の手になるものである。石工名が多く刻まれるようになるのは、石造物自体が多くつくられるようになる寛政期以降である。当初は高遠石工の名が多いのにたいし、時代がくだるにつれ在地の石工の名が増えてくる。とくに善光寺周辺の石工たちのなかには善光寺石工と称しているものもみられる。しかし、善光寺石工と刻まれる例は、善光寺町にはみられず、篠ノ井の小松原や御幣川(おんべがわ)といった周辺地にみられる。また善光寺石工の名で善光寺境内に建てられた石造物はなく、境内の石工名のあるものはすべて泉沢吉左衛門準則ただ一人であることなどをみると、おそらく善光寺石工という名称は、高遠石工という名に対抗あるいは便乗して、善光寺付近で仕事をしていた職人が善光寺ブランドを前面に出すために称したものと思われる。
ところで高遠石工といえば守屋貞治に代表されるように、地蔵菩薩や三十三観音像といった丸彫りの石仏に巧みな職人というイメージがあるが、じっさいには、市域にある高遠石工の作品をみるとその多くが石灯籠(いしどうろう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)といった石塔類が主であり、丸彫りの石仏は数が少ない。これには石工の腕、依頼するがわ、石工が石造物に銘を残す基準などの問題があっていちがいにその理由を断定することはできないが、石仏を数多くつくった守屋貞治にしても作品自体に銘を刻むことはまれであった。その大半は彼が晩年の天保二年(一八三一)に書き残した「石仏菩薩細工」によって貞治の作品であることがわかるということを考えると、石工が石造物に自分の名を刻むのにはある基準があって、石仏に銘を刻むことは一般的ではなかったのかもしれない。