木綿生産の展開と善光寺周辺の木綿布仲間

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庶民の衣料として各地で栽培され織られた綿や綿布は、善光寺平でも主要な商品作物・産物のひとつであった。綿や綿布が自給の枠をこえて商品として販売されるようになるのは一八世紀以降のことであった。元禄七年(一六九四)に笹平(ささだいら)村(七二会)の上・下町のそれぞれの市場をめぐる争論の内済(ないさい)文書(『県史』⑦一〇〇二)のなかに、「塩・あい物・石(穀)物(こくもつ)・なべ・かま、太物(ふともの)のうち手前拵布(てまえこしらえぬの)一、二反」、「そのほか繰綿(くりわた)の儀もふくみ大売(おおうり)くわ・薪(たきぎ)等まで市場にて商売仕(つかま)るべく候」とあり、自家製の布や繰綿などを市場で販売していたことがわかる。これは周辺の土地柄を考慮すれば主には自給を補完するための販売だと考えられるが、そうした自給用以外の繰綿や綿布もふくまれていたとみてよいであろう。しかし、善光寺町を中心とする木綿流通が本格化するのは一八世紀後半と考えられ、このころには市日(いちび)ごとに善光寺町に集まる木綿仲買人が「この町続きに木綿仲買人百余人あり、一歳に約五百駄の木綿荷を売買」したという(『長野市史』。読みやすくあらためる。以下同じ)。また安永五年(一七七六)には木綿布の尺幅(しゃくはば)不揃いが問題となり、仲間のあいだで対策が話しあわれるようになっている。

 この尺幅不揃い問題は一八世紀末になるといっそう深刻となり「御支配違いの村方入会(いりあい)に御座候えば、段々不揃いに相みえ、別して近年尺幅猥(みだり)に織り出し候に付き、商売に相成りかね」るような状況となっていた。そこで寛政元年(一七八九)に概略つぎのような内容の仲間定めが結ばれている(『県史』⑦一〇一九)。

①尺幅不揃いの場合は「尺幅相直し候様に」するが、「その聞き入れもこれなく、無尺織り出し候ものこれあり候わば、よんどころなくその割合を以て尺引き致し、買い取り申すべく候」。したがって「仲間取り引きの節も相改め、無尺の布これあり候わば、尺引き異議なく致すべく候」。

②それぞれが買いうけた品物には印をつけて取り引きする。

③尺幅改めについて各人が「在郷へ参」ったときに「がさつがましき儀」をしない。また「仲間にて論等相互に慎む」こと。

④「仲間支(仕)法」にそむいた者は「仲間を除き、取り引き決して仕るまじく候」。また「仲間にて急に申し談じ事」があっても、それをそとに洩(も)らさない。

 この定めは木綿布の尺幅不揃い対策だけでなく、仲間内の結束に関する規定もふくまれていたが、木綿仲間の組織問題はその後いっそう重要かつ深刻になり、文化七年(一八一〇)には「仲間入り定め并(ならび)に慎みの事」と題する一一条の申し合わせが作成されている。このうち、商売関係の箇条(かじょう)は「仲間のあいだで競争しないように」という条項だけで、あとの一〇ヵ条はすべて仲間としての心構えなどに関するものである。なおこのなかに生産者の仲間外の商人への販売などに関する条項が一つもないところをみると、当時は木綿布仲間と生産者とのあいだには大きな問題は生じていなかったとみてよい。

 しかし、一九世紀初頭になると木綿布を扱う商人の増加にともなって仲間内部にかなり深刻な対立が起きていた。それを紹介する前に、まず文化七年の木綿布仲間をあげてみよう(『県史』⑦一〇一九)。


木綿布仲間

右の仲間以外に、つぎの二〇人が記されているが、それは「吉田組」所属の者と考えられる。


 表中の仲間は善光寺町と周辺のおもに善光寺平北東部の村々の者たちであって、松代領もふくむ善光寺平一帯の木綿布仲間の中心的存在であったと考えられる。彼らは文化七年につぎのような取り決めをおこなっている。

 一前度(ぜんど)相定めの通り、八幡川境(さかい)と致し、南の方後町口(ごちょうぐち)と定め、北の方新町(しんまち)口と定め、これにより在郷小買いの儀は、市日に買い取り候こと延引(えんいん)致すべく候、(下略)

 一在方へ出(い)で候節、物差(ものさし)持参仕(つかまつ)らず候仁(じん)見届け候わば、見当たり次第百文ずつ過料(かりょう)きっと取り申すべく候事

 北国街道の南口は後町、北口は新町、東がわは八幡川を境界と定めて、その外がわの在郷での市日での木綿布の買い入れを禁止したり、在方へ出るときには物差を持参して、尺不揃いの木綿布を購入しないことなどを取り決めている。これは仲間内部での商いに関する利害の対立への対処であり、その背景には木綿布を扱う新たな商人の増加があった。たとえば文化十年には浅野組という仲間組が設立され、その組境(くみざかい)は南は浅野村(豊野町)、東は千曲川、北西は川谷(かわたに)(三水村・豊野町)・倉井(三水村)・牟礼(むれ)(牟礼村)・舟竹(信濃町)・普光寺(ふこうじ)(三水村)となっており、現在の飯山線と信越本線の分岐点から北西に信越本線沿いと東の千曲川沿いに囲まれた地域であった。組のメンバーは浅野村八人、南永井(江)村(豊田村)一人、北永井(江)村(豊田村)二人、梨久保村(三水村)一人、大倉村(豊野町)一人、加仁沢村(蟹沢、豊野町)一人、川谷村一人、荒瀬原村(信濃町)一人を数えている。

 このように木綿布を扱う仲間組が増加した一九世紀はじめには、当然繰綿や木綿の生産も大きく展開していた。