松代藩は文化十三年(一八一六)、木綿生産にたいしてつぎのような趣旨の触れを出した(「木綿仲間取極帳」『伴家文書』長野市博寄託)。
最近「木綿の儀は御領分専らの品に候ところ、町方・町外(ちょうがい)・近在の者篠巻(しのまき)など製し方宜(よろ)しからざる趣(おもむき)にて、右売買数年相衰え歎(なげ)かわしき事に候」ところ、商売仲間が今年から「繰綿(くりわた)・篠巻上製に致し、往々(ゆくゆく)以前に立ち戻り繁昌(はんじょう)致し候様」にしたいと申しでたので、「唐弓打(からゆみうち)・挽子(ひきこ)・篠巻撚取(よりとり)の者どもまで右の趣相心得、木綿仲間のものどもより申(もう)し談(だん)じ次第睦(むつ)まじく申し合わせ、町方・町外・近在とも追々繁昌」するようにせよ。また木綿仲間で「挽賃(ひきちん)も相増し」、さらに「登(のぼ)せ糸同様に正路に取り計らい上製致す」ように心掛けよという内容であった。
これは先の善光寺周辺の綿布商いとは違って、繰綿や綿糸に関するものであり、それをうけて取り極めを作った木綿仲間も、綿と綿糸を扱う商人仲間であった。
一篠巻 目方六拾目 細藁(ほそわら)二筋に結ぶ、
一繰綿 一貫目 打賃(うちちん)銀一匁四分(ふん)五厘
一実綿 一貫目 挽賃(ひきちん)三十二文
一挽子(ひきこ)自由に致さず僉議(せんぎ)をとげ、二軒挽き致させ申すまじき事
一挽き方無作法の者これあり候わば、行司へ申し通し、一統挽かせ申すまじき事
(二条略)
木綿仲間は仲間のあいだの競争を排するために打賃や挽賃を取り決めるとともに、挽子への支配を強めようとしたのであった。この取り極めに署名した者たちは、馬喰(ばくろう)町(松代町、以下同じ)一〇人、新馬喰町三人、五反田二人、紙屋町三人、紺屋町二人、木町二人、新川原二人、鍛冶(かじ)町一人、中町一六人、荒神(こうじん)町一三人、東寺尾一人であって、松代町と町続き地の木綿商人である。これだけの木綿仲間がいた松代町には綿打ちをおこなうものも少なからずいた。文化四年の荒神町の家業改めをみると、七三軒中に「綿商売」が六軒、「綿打ち商売」が四軒の計一〇軒で、「耕作仕り候」の一一軒についで多い(『県史』⑦七一七)。ここに木綿布を織っている者が一人もいないことが目を引くが、これは荒神町だけではなく当時の松代町全体の傾向であったといってよい。
松代領では文政八年(一八二五)になると、「唐弓(からゆみ)綿打ち商売」は村役人をとおして藩から許可証である「腰札(こしふだ)」をもらって唐弓綿打ちをおこない、冥加(みょうが)銀を納めることを義務づけられるようになった。ついで木綿商人も文政十二年、藩からの鑑札が必要とされるようになった。
木綿商人御領分人別も相極(きわ)めず、かつは国産の品猥(みだり)に成り行き候ても宜(よろ)しからず、御締(おしま)り筋にも差し障り候に付き、まず人別一束に取り調べ、当御役(町奉行)にて鑑札相渡し候には然るべき旨仰せ渡さる、
さらに天保五年(一八三四)になると、松代領以外の者が木綿商いのために松代領内に入りこむことが禁止された。そのため、問御所(といごしょ)村(鶴賀問御所町)や権堂村(鶴賀権堂町)などの仲買人は、後町村(西後町)名主深見甚十郎を頼んで松代藩の産物会所から鑑札を付与されて従来どおりに商売をつづけたが、松代藩の措置は善光寺町を衰微させるものだとして、善光寺町を代表して大門町の滝沢助之丞と小野善兵衛が幕府の寺社奉行に提訴した(『長野市史』)。その訴訟は「綿買い入れ」「綿荷」など綿売買が中心であったが、それ以外に、善光寺町につづく村々や松代領の三輪・﨤目(そりめ)(三輪)、吉田、後町、妻科村のうちの新田組(新田町)と石堂組(南・北石堂町)の者たち、また原村(川中島町)・鬼無里(きなさ)村(鬼無里村)・笹平村(七二会)・栃原(とちはら)村(戸隠村)の者たちが、穀物やその他の品物について勝手に市を立てたり商売をして善光寺町の市場を侵食しているとして、そのことも善光寺町は訴訟のなかで訴えていた。
この訴訟は、これを預った東叡山(とうえいざん)寛永寺が松代藩と折衝(せっしょう)して「松代様御沙汰(ごさた)にて御憐愍(ごれんびん)の御沙汰」という、つぎのような和解案で決着している。
一善光寺町続き前後の吉田村、﨤目村、三輪村、後町村、妻科村の内新田組・石堂組、問御所村、権堂村、右村々にて商い致し候儀は、長暖簾(ながのれん)相止め、問屋同様并(ならび)に横行きの商(あきない)致すまじき事
一木綿駄売り差し障り候ところ、御鑑札にて売買致し候事ゆえ、駄売り差し構(かま)わざる様御理解に付き承服仕り候、
善光寺町続きの村方での商いは、本格的な店を張ったり問屋同様の商いや勝手気ままな商いを禁止しただけであって、綿については駄売りは無鑑札でも構わないというのが和解策であるから、善光寺町に有利な解決策であったといってよい。しかし肝心の松代領内産の綿商いには鑑札が必要という条件は撤回されたわけではなかったから、松代藩の領内産の綿取り引きにたいする規制は解除されなかったといえる。
このように一九世紀前半になると綿をはじめとする物資流通は、善光寺町や周辺地域の商人と松代藩と生産者とが相互に対立したり連携したりするなかで複雑に展開していくのであった。