養蚕業の展開

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松代領における養蚕業は、文化六年(一八〇九)・七年には上田領に近い新地(しんち)村(坂城町)や松代町などに糸市が開設されるまでになった。これにいたる経緯を『小県郡誌』余編は概略つぎのように記している。

 蚕種や製糸の振興にとって重要な人物は、上塩尻(かみしおじり)村(上田市)の藤本善右衛門であって、とくに糸挽(いとひ)きの技術導入に意を用い、上州(群馬県)から糸挽師を呼びよせて提糸の普及につとめ、文化五年には六人の仲間で「諸事睦(しょじむつ)まじく相続致し繁昌仕(つかまつ)」ることを目的とした「蚕影山日待(ひまち)」と称する定期的な会合をもつにいたっている。そして提糸は、上州から招聘(しょうへい)された前橋近郊原の郷(前橋市)の高山要七夫妻と桐生(桐生市)の藤井善蔵による技術指導によって、小県郡では中島・上田・荒屋・御所・諏訪形(すわがた)・上田原・神畑(こうはた)・保野(ほや)・舞田(まいた)・天神(上田市)、丸子・長瀬(丸子町)、海野(東部町)、埴科郡では鼠宿・新地(坂城町)、森・倉科・土口(どぐち)(千曲市)、中沢(篠ノ井東福寺)、松代町などに普及し、そこからさらにそれぞれの周辺地域に提糸の技術が波及していったという。

 こうして文化六年に、新地村の糸屋丈右衛門と上塩尻村(上田市)の同業者らによって二・七日の糸市が開かれたのであったが、紬(つむぎ)や絹織物は、この製糸業からやや遅れて文政期(一八一八~三〇)ころから本格的に展開していった。しかし、生糸も絹織物の展開も松代藩の殖産興業ならびに城下町振興策と密接に関連しており、それらについては本章四節三項で取りあげるのでここでは省略する。