紙生産の展開

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紙はもともとは貴重品であり、松代藩は御用紙を生産させ、城下町の紙屋町に紙役として「はなかみ」を上納させていた。しかし、庶民の生活が向上して、読み書きが増えたり家に障子が普及するなど、庶民の紙の需要や消費が増大するのにともなって、紙生産は拡大していった。松代領内では紙はおもに山中村々で生産され、おおよそ大岡村(大岡村)など犀川・土尻(どじり)川を中心とする地域では原料の楮(こうぞ)の採取が、栃原(とちはら)村(戸隠村)など裾花川流域の村々では紙漉(かみすき)がさかんであった。楮や紙漉は住民の生活物資購入や年貢納入のための生産という性格が強かったから、いつから商品生産としての楮売買や紙生産がはじまったかを明らかにすることはむずかしい。しかし、楮の売り出しについて網掛(あみかけ)村(坂城町)の市左衛門らが、「御領分村々楮商売の儀、他所へ出し候者は八幡市(やわたいち)(千曲市)にて払い、他の市ヘ一切出(いっさいいだ)し申すまじく」という藩の仰せ渡しを遵守(じゅんしゅ)するとした一札(『県史』⑦一〇〇三)を奉行所に差しだしているところをみると、元禄六年(一六九三)ころには、定められた市(いち)以外でも楮売買がおこなわれるようになっていたことが分かる。

 紙漉については、時代はくだるが安永元年(一七七二)の栃原村西条組の場合をみてみよう。この村は麻と漆の実の生産地でもあるが紙漉もさかんで、このあたりでは当時清水紙・サカ紙・広盤紙・小判紙・長中ばん・五分庵紙などが漉(す)かれていたらしい。西条組(明和二年の高二五〇石)での紙漉はつぎのようである(『県史』⑦九三二)。


 これでみると所持する漉舟がすべて一戸につき一舟であるから、紙生産は、自家労働による小生産であったことがわかるが、松代藩はこの年から領内の紙漉人別と舟数、漉立紙の種類などを把握していく。

 これからおよそ二〇年後の寛政六年(一七九四)に、栃原村と同村西条組・追通(おっかよう)村・上祖山(かみそやま)村・下祖山村・志垣(しがき)村(戸隠村)の六ヵ村は、つぎのような四ヵ条の取り極めを結んだ(『県史』⑦九三五)。

 それは①紙漉始めと「春漉仕廻(はるすきしま)い」の期限を定め、②楮の値段を「楮本より持ち来たり候わば日切り(日ごと)に値段相極め買い取」るほか、「壱負い切りにて値段相極め候とも、一両人立ち合いにて相極め」る。③「春漉仕廻い」の期限である八十八夜以後に紙漉を営む場合は、「くず紙・ちり紙」などに限り、「白紙の分は決して漉」かないこと。④「舟の儀は一舟切り」とすること、というものである。

 このような取り極めがなされた背景には、「近年紙漉商売の儀猥(みだ)りに罷(まか)り成り、渡世に相成り申さず候えども、互いに見合わせ、耕作をもおろそかに仕り候儀多く御座候」というように、耕作をおろそかにしてまで紙漉にたずさわるというような状況があった。また楮値段についても、それぞれが「楮勝手次第取り寄せ漉き候て、暮れにいたり相場も出来兼(かね)」て「指引(さしひき)等異(遺)恨(いこん)に相成」ることがあったり、仲介業者が「楮元にては楮代金引き下り」といい、紙漉人へは「余分にも相渡し候」などといって楮値段をめぐる争論がしばしば発生したのである。

 なおこの取り極めは、当事者である楮や紙漉関係者だけでなく、六ヵ村の「役人・頭立(かしらだち)・紙漉総代」が集まって決定されており、楮の売買や紙漉が村落共同体の管理・規制下にあったことが分かる。

 その後の紙漉業の動向はよくわからないが、嘉永二年(一八四九)の栃原村西条組の紙漉人は、五五人を数え(『県史』⑦九八〇)、安永元年(一七七二)の四一人より増えているところをみると、紙漉業は幕末期に向かっていっそう発展していったとみてよいだろう。