蚊帳麻布生産と産物会所

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前掲の『町村誌』北信篇では主要産物の上位にはランクされていなかったが、麻は山中の重要な生産物であった。一般に、近世になると衣料としての麻はその首座を木綿に譲っていくのであるが、依然として麻の需要は多く、とくに蚊帳(かや)の生産が大きく発展していった。当該地域で「山中麻(さんちゅうあさ)」として知られる麻も、蚊帳麻布の生産が大きく伸びていったが、一九世紀に入ると藩の殖産政策に組みこまれて他国売りが促進され、それにともなって尺幅不足が問題化した。天保五年(一八三四)に産物会所から出された尺幅不足などを取り締まる通達には、「先年より尺幅の儀度々(どど)御触れ示しこれあり」とあって、おそらく文化年間(一八〇四~一八)には尺幅不足が問題視されたと思われる。

 天保五年に産物会所から出された尺幅不足取り締まりの通達内容はおよそつぎのようである(『県史』⑦一〇六一)。

「山中村々農間の稼ぎ」に織りたてる「蚊屋(かや)麻布」の捌(さば)き方が年々差し支えてきたので、江戸表・上方筋の売先(うりさ)きを詮索(せんさく)したところ、他国・他郷からも麻布の出荷が多いなかで、領内産のものは「幅尺不足の上、一反一疋(ぴき)の内にて表織り・中織り等の差別これあるもうち交り、品劣り候ゆえ、他国・他郷のつぎに仕入れ」るなど「産名」が悪くなっている。仲買の者は売先きのようすを心得てよく織元(おりもと)へ相談して産業が衰えないようにせよ。いったい仲買(なかがい)の者はこれまで「一己(いっこ)の利徳を得」ることのみ考え、「捌(さば)き先き下直(げじき)に候えば右に準じ買い取り、織元助益(じょえき)筋の有無にかかわらず活業筋衰え行き候場へも心を用いず、等閑(なおざり)に打ち過ぎ候事」はなかったか。「若し織元にて仕馴れ候悪しき織り方等致し候者これあり候わば、助成増し候意味深切に申し諭(さと)し、上製に相成り候様」励ますようにせよ。

 つまり、新たに設立された産物会所が、蚊帳麻布を中央市場の江戸や上方(かみがた)へ販売しようとしたところ、幅尺不足など他国産のものより品質が劣っていて売れゆきがよくないので、他国産に太刀打(たちう)ちできる上製の麻布の生産を奨励したのである。そのために、織元が上製の麻布を織りだすことはほかならぬ「織元」自身の「助益筋」になることを仲買人によく諭すようにと求めている。


写真1 産物会所での取り扱いを記録した御用留め
(『松代八田家文書』国立史料館蔵)

 他方で藩は、「産業筋取りたての趣意を相わきまえず、織り方宜(よろ)しく相成り候を自己の利益に相ふくみ、不正実の買い方等いたし、織元不為(ふため)に及ばせ候族(やから)もこれあるべき哉(や)」と不誠実で織元のためにならない仲買人の取り締まりのために市場「世話人」なるものを設定した。世話人は、市(いち)が認定されている笹平村(七二会)に三人、新町村(信州新町)に七人(年番行司五人をふくむ)、牧之島村(同)に二人、鬼無里村(鬼無里村)に二人、栃原村(戸隠村)二人、宮平村(大岡村)に四人おかれた。その役目は、産物方改めの焼印のある物差しを仲買人に渡して誠実に商売するように説諭し、またその物差しをもたない商人には麻布を売り渡さないように織元や小前(こまえ)に申し渡して徹底させることであった。

 このように天保五年段階の藩の蚊帳麻布の尺幅不足への対策は、流通統制というよりは、中央市場で他国産に対抗できる麻布の生産奨励(国産奨励)と生産者の育成という性格が強かったのである。