肝煎から名主へ

654 ~ 655

宝暦・明和期(一七五一~七二)に松代領の村では、それまでの「肝煎(きもいり)」から「名主(なぬし)」に名称がかわった。この名称変更と恩田木工(もく)の改革との関連は本章二節四項に詳しいが、ここでは桑原村(千曲市)の幸助が宝暦十四年(明和元年、一七六四)に出した左の名称変更願い(『県史』⑦六九八)から、名称変更の理由をみておこう。

郡中村々肝煎役の儀、前々より名目肝煎と唱え相勤め罷(まか)りあり候、然るところ段々御地(他)領取り合いの出入り等、又は御他領名主どもと一烈(列)の掛け合い等も御座候儀、なお又他所より引越し仕り候者御座候えば、そのたびごと送り証文取り合い仕り候儀数多(あまた)御座候、その節何とも応対仕らず未熟の体(てい)にて迷惑至極に存じ奉り候、

 他領との争論や折衝、引っ越してきた者の送り証文のやりとりなどの応対に困るので、「名主」に名称変更してほしいというのである。他領や他地域との交渉にさいして「肝煎」ではなぜ不都合なのかよくわからないが、おそらく「肝煎」は「名主」よりは古いイメージがあって、名主より格下とみなされがちだったのではないだろうか。それはともかく、宝暦・明和期には「肝煎」名では格好がつかないと感じるような仕事が増えた、ということが重要である。