頭立の設置とその変化

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この名称変更願いと同じように、「頭立(かしらだち)」の設置も村役人の仕事の増加に対応したものであった。このころから、松代領村々では「頭立」という村方三役以外の村役人の設置が増えている。頭立は元文期(一七三六~四一)には存在していたようであるが、本格的な設置は宝暦期からといえよう。この頭立については、天明元年(一七八一)に上山田村(千曲市)の三役人が代官所に提出した長(おとな)百姓への名称もどし願書から、つぎのように考えることができる(『県史』⑦七〇四)。

 まずこの願書は、頭立設置の経緯(けいい)をつぎのようにのべている。

頭立は先年に「御用繁多にて役人手廻り兼(か)ね候に付、助役(すけやく)相立て」るように藩から命じられて、「小百姓の内にて御用等相勤め候様なる者見立て候て」命じられた者であって、いらい諸詮議や藩役人の回村にさいして長(おとな)百姓同様に頭立(かしらだち)一同が御用を勤めてきた。

 これによれば頭立は、多くの御用を捌(さば)き切れない村役人の助役として小百姓から任命された者で、旧来の村役人(長百姓)同様に御用を勤める者である。つまり、頭立設置は村役人の仕事や役割の変化への対応策であったといえる。

 ところで、上山田村のこの願書では頭立は村役人層以外の小百姓が取り立てられたとしているが、そうでない場合もあった。たとえば、明和八年(一七七一)の東寺尾村(松代町)のように、退役した名主が任じられる場合もあった(松代町東寺尾『野中家文書』)。もっとも、名主が由緒のある村役人階層の者とは限らず、小百姓が名主を勤めたあとで頭立に推薦(すいせん)されるというケースもあった。ところで東寺尾村の退役名主の頭立への推薦(すいせん)理由として「人柄万端実体者(ひとがらばんたんじったいもの)」があげられ、任務も「御用向き」以外に「寄り合いにも罷り出(まかりいで)候様仕(ようつかまつ)る」ことが加えられているが、これは他村の頭立推挙でもほぼ共通している。頭立には藩御用を勤めるほかに、村を治める役割も期待されたのであった。

 つまり、頭立の役割はひとつではなかったのであるが、どちらかといえば、時代が下るとともに「御用向き」処理から村内の諸問題への対処が重視されるようになっていった。それはたとえば、天明三年(一七八三)の凶作にさいし金穀を拠出して村民の窮迫を救助した功により藩から褒賞(ほうしょう)された者(表2)のほとんどが、頭立であったことからもうかがえよう。


表2 天明3年(1783)の村方救助人