頭立体制の危機

657 ~ 659

以上のように藩から村方支配のてこ入れとして期待された頭立は、寛政期(一七八九~一八〇一)になるとその存在が危うくなった。藩は寛政十二年(一八〇〇)につぎのような仰せ渡しを領内に布達してその建て直しをはかろうとした。この法度(はっと)は四ヵ条であるが、頭立に関する一条は重要であるから全文を掲げよう(『県史』⑦七一六)。

 一村々三役人前々より頭立の内にて多分相勤め候ところ、右の内不埒(ふらち)の取り計らい致し候族(やから)これあり、近来は小百姓の内にても勝手次第名主役ならびに組頭・長百姓とも相勤め候、村役人の儀は一村取り始末、締まり取り計らい候事につき、小百姓に役前相勤めさせ候儀如何(いかが)わしく、前々はこれ無き事に候えども、右躰(みぎてい)の儀につき指し免(ゆる)しおき候ところ、村方により小前ばかりにて相勤め候事もこれあり、第一村方不取り締まりに相成り、その上御用筋も弁(わきま)えかね候儀間々(まま)これあるにつき、以来三役人のうちいずれの役前成りとも村方申しあわせ、小百姓の内にて壱人は相勤め候とも、残り二人は頭立の内慥(たし)かなる者相勤むべく候、

 藩の対策は、三役のうちの一人は小百姓が勤めてもよいが、残る二役は頭立のうちの慥かな者が勤めるようにせよというのであるが、ここでは頭立と村役人との関係についての記述のほうに注目したい。これによれば、村方三役は以前から頭立から勤めることが多いとあることから、頭立はかならずしも村役人の補佐ではなく、村役人を勤める階層を指していることがわかる。しかし、その頭立以外の小百姓が村方三役を勤める村も少なくないということは、頭立は村役人とは無関係のたんなる〝格〟になっていることを示している(しかし、その〝格〟が村政の上で大きな役割を果たしたのであった)。この傾向は、すでに天明期(一七八一~八九)に藩が村々の頭立の調査をおこなったころからみられたが、寛政期にはほとんど完全に〝格〟だけの存在となっており、藩は頭立=村役人というほんらいの姿に、せめて三人のうち二人は戻そうとしたのであった。

 こうした頭立の村政からの乖離(かいり)は、東寺尾村の村方三役にもはっきりとあらわれている。表3から明らかなように、寛政期以降新興勢力の台頭によって頭立の村役独占は崩壊しはじめ、後述するように文政期(一八一八~三〇)以降になるとそれが決定的になっていく。


表3 東寺尾村の村役勤め年数