頭立の存在意義が大きく問われた一九世紀はじめは、村役人階層だけではなく村人の存在形態が大きく変化しつつあった。その点を松代領内の田野口村(信更町)を素材にしてみてみよう。田野口村は山中と里郷の接点にあたる山寄りにあって、新町(信州新町)・笹平(七二会)・稲荷山(千曲市)などの市や在町に近い村であるが、その階層構成を示したのが表4である。
天明六年(一七八六)は五石以下層、五~一〇石層、一〇~二〇石層はそれぞれ全体の三一パーセント余を占めており、ほぼ農業で生活できる階層だと考えられる五石以上層は全体の六八パーセント余となっている。しかし、文化十二年(一八一五)になると、天明六年より五~二〇石層、なかでも一〇~二〇石層の減少がいちじるしい。これにたいして二〇石以上と五石以下の増加、とくに一石以下層の増加が目立つ。つぎに天保七年(一八三六)を文化十二年とくらべると、二〇石以上層が減少していること以外は、天明~文化期(一七八一~一八一八)の傾向がいっそう進んでいる。つまり時代がくだるにつれてかつて村の中核をなしていた五~二〇石層の没落が激しくなり、かれらの土地は上層百姓が集積している。そこで二〇石以上層の保有している石高を表5に示したが、文化十二年と天保七年には三人で村の土地の約半分を所持している。最高の土地所持者は頭立でもある佐治右衛門で、天明六年に一〇五石余、文化十二年に一三三石余、天保七年には一五七石余と土地を集積している。
この田野口村の動向は他地域についてもほぼあてはまり、一九世紀には多くの村々でおよそ五~二〇石という自作百姓が減少して五石以下の零細百姓が増えるいっぽうで、少数の上層百姓の土地集積がいっそう進んでいった。このうち零細百姓の増加については、離村せずに村にとどまりえている理由として、別項で述べられている商品・貨幣経済の展開による諸稼ぎの展開があげられよう。もちろん零細百姓のなかから破産し逃亡する者もいたのであって、寛政末には松代藩からそうした没落者や離村者にたいする布達が出されるほどに、離村者も増加していった。