頭立と小前の対立

661 ~ 663

宝暦期(一七五一~六四)ころいらいの頭立層に補強された村運営体制は寛政期(一七八九~一八〇一)になると大きく崩れていったが、文政期(一八一八~三〇)になると、頭立と小前との対立がより尖鋭にあらわれるようになった。それを示す文政三年(一八二〇)の藩の布達をつぎに掲げよう(「組切御請書」『東寺尾区有文書』松代町)。

近年一統花美(かび)に相成り候につき、村方手回りこれあるもの、とりわけ頭立等土に遠く碁(ご)・将棋(しょうぎ)等翫(ならい)候風儀多く、なかには不行状の者もこれあり、勝手向き難渋に相成り候様に相聞こえ候、かつまた近来は小前の者のうちにも筆算達者の者も追々出来(しゅったい)候につき、名主・頭立どもの不取計(ふとりはか)らい・不差引(ふさしひ)き等を探し出(いだ)し、果(はて)には出入(でい)り・出訴に及び候村方もこれあり、一村の衰弊(すいへい)をも存ぜず、人気の動静をも弁(わきま)えず、不埒(ふらち)の至りに候、これによりこのたび頭立惣代(そうだい)一人・小前惣代一人呼び寄せ申し含め候あいだ、左の趣(おもむき)熟得いたし早速(さっそく)村中打ち寄り、小前末々まで聢(しか)と申し含め、以来人気(じんき)穏やかに一和致し、村方衰え申さざる候様銘々相心懸くべく候、

 これによると、頭立のなかに農業をしないで碁・将棋などに熱中する者や「不行状」の者がおり、他方で小前のなかに筆算が達者で名主や頭立の不正などを指摘して訴訟などをおこす村がある。そこで頭立と小前の総代を呼んで申し渡すというのである。「左の趣」の箇条書きは七ヵ条あるが、頭立に関する条文を抜きだしてみるとつぎのとおりである。

一頭立の者ども、多分家筋をのみ存じおり、小前を掠(かす)め我威(がい)をはり候につき、出入(でい)り等に相成り候儀間々(まま)これあり、如何(いかが)わしきことに候、これにより以来頭立の詮(せん)相立たず村方一和致さず候類(たぐい)は、吟味の上申し付け方これあり候あいだ、村々頭立の者どもとくと勘弁致し、村為(むらため)第一に心掛け正路に取り計らい、締まり第一小前末々迄帰服(きふく)候様心掛くべく候、

一小前の者、頭立は一村の取り締まりのため申し付け置き候儀を弁(わきま)え、万端正路に相慕い村方穏やかに一和致し、物入りなどこれなき様心掛け申すべく候、

 頭立と小前との対立に手をやいた藩は、両者に村方の一和を保つようにと説諭するとともに、問題があれば両者を吟味すると、村方騒動に強い態度で臨む姿勢を打ちだしている。

 注目されることは、この達しにあるようにこのころ村々にはおもに中・下層村民の代表としての「小前惣代」が登場して、かれらの言動が村政に大きな影響をあたえるようになっていたということである。先述したように寛政期には「小百姓」の村役人就任が問題とされたが、今では村内が小前層と頭立層とに二分されて、両者が対立・抗争することが大きな問題になってきたのであった。こうした状況にたいして、右の藩の説諭ではなんの解決にもならなかったことはいうまでもないが、この三年後に藩主に就任した幸貫(ゆきつら)は抜本的と思われる対策を打ちだしたらしい。それについて『一誠斎紀実(いっせいさいきじつ)』(『北信郷土叢書』⑦)はつぎのようにいっている。

皆門地を以て世襲するが故に能吏(のうり)少なく、村治挙(あが)らざるのみならず、或いは圧制を事とし、或いは私利をほしいままにする悪弊(あくへい)ある事を洞察せられ、断然村吏世襲の慣例を廃し、村ごと人望の帰する者を選挙し、年限を以て村正(そんせい)(名主)たらしむるの法を立てられしより大に悪害を除くに至り、隣藩の村落にてはわが管下(かんか)を羨(うらや)みしとぞ、

 これによれば、幸貫は門地(おそらく頭立)による村役人という制度は悪弊だとして廃し、選挙による年限のある村役人選出を制度として実施したとある。もしこの制度が領内に布達されたとすれば、頭立層と小前層の対立はかなり解消される画期的ともいえる対策であったと考えられるが、いまのところこの制度が実施されたかどうかを確認しえていないので、これ以上のことは今後の研究に待ちたい。