宝暦十一年(一七六一)十二月、上田領でおきた百姓一揆(いっき)は、上田藩宝暦騒動といわれ、一八世紀なかばの代表的な全藩一揆として知られている。この騒動に連動しておきたと思われる上田藩分知の塩崎知行所の強訴(ごうそ)(枡騒動(ますそうどう))は、翌年正月、塩崎知行所上郷(かみごう)の更級郡塩崎村(篠ノ井)と下郷の同郡今井村(川中島町)を中心におきた。上郷は塩崎村約三〇〇〇石、下郷は今井・上氷鉋(かみひがの)(川中島町)と中氷鉋(上田藩と分け郷、更北稲里町)の三ヵ村、約二〇〇〇石である。
宝暦十二年正月、今井村では町組の堂に村人が集まり、①免相(めんあい)(年貢率)、②金納米相場、③出人給(でにんきゅう)、④御仕送(おしおく)り金、⑤籾枡(もみます)の五ヵ条について話しあいがもたれた。①については、すでに宝暦七年から、二、三回にわたり願書が提出されていた。七年十月の願書は、「当夏は長雨で麦が不作であり、そのうえ木綿作りは壊滅状態である。そのほか大豆・小豆の類もおおかた不出来(ふでき)なので先年御知行所のときの御定免(ごじょうめん)米数にて、当年から定免にしていただきたい」と七兵衛ら一二人の百姓代が訴えでている。この願書の末尾には、「百姓ども江戸表まで参上して御願い申しあげたいが、まず御両所様へ」として、上氷鉋代官東福寺与平治、塩崎代官清水唯右衛門に訴えでている。しかし、この願書は受けいれられなかったとみえて、翌十一月にはあらためて、「知行所であったときの納め米高に五〇石の増米(ましまい)で定免にしていただきたい」と、再度願書を提出している(『堀内家文書』県立歴史館寄託、以下同文書による)。
ここでいう「先年御知行所の節の御定免米数」とは、旗本知行所であった享保十五年(一七三〇)から寛保二年(一七四二)までの四五〇石から四九〇石台をさすと思われる。既述したように(『市誌』③二章二節二項)塩崎知行所五〇〇〇石は、上田藩川中島領一万石が享保三年(一七一八)から幕府領となり、同十五年八月に上田領に戻ったときに、その半分が上田藩分知の旗本知行所として成立したものである。寛保三年から再度幕府領となったが、その途端年貢高は上昇し、宝暦六年にふたたび知行所に復帰してからも引きつづき約五七〇石台、翌七年には六三〇石台となっていた。そこで、同八年三月には、これまでの年貢高では生活しがたいとして、年貢高の引き下げと定免願を再三にわたって今井村百姓代二人と上氷鉋村百姓代二人の連名で提出した。この結果、今井村でみると、八〇石余の御用捨米(ごようしゃまい)が認められ、同十年には年貢高が五五〇石台となっていた。しかし、依然として先年知行所のときよりも一〇〇石前後増徴されている状態なので、宝暦十年七月に引き下げを願いでたのである。
②の金納米相場については、知行所は、本家筋にあたる上田領の金納値段で上納していたが、それより多少低い松代・須坂・善光寺町の米相場で納めたいという内容である。③の出人給の件は、七年前の宝暦七年から夫人(ぶにん)に代わって、一人につき夫給金二分ずつ五〇人分を四ヵ村から差しだしていたが、その夫給金の差しだし免除を願ったものである。④の件は、米値段が連年下がって領主財政が窮乏化したため、四ヵ村で御仕送り金を出してきたが、それを御用捨願いたいという内容であった。この御仕送り金は、いわば領主の領民からの前借り金ともいうべきもので、領主はこれに一割五分の利息をつけ、毎年末年貢米から元利とも皆済していた。⑤の「籾枡」の件は、従来一俵に籾五斗三升入りであったものが、知行所になってから五斗五升入りとされ増徴につながるため、もとの枡(ます)にもどしてほしいという要求であった。このことが枡騒動といわれるゆえんである。
いっぽう、塩崎村でも一三ヵ条にわたる諸要求と、知行所になってから新規に作成された名寄(なよせ)帳と本田苅付(かりつけ)帳を領民がわに引き渡すこととを、現地の代官をとおして江戸表に要求した(『塩崎村史』)。一三ヵ条のうち一条から四条までは今井村の要求とほぼ共通なので省略し、ここでは五条以下のおもな要求事項についてふれる。①前々から村々で高割りする夫銭(ぶせん)が、近年ことのほか高い。②当地が知行所になってからは、免状目録を小百姓に見せない。③宗門人別改めは今年からは村ごとにお願いしたい。④新しい陣屋の費用は、塩崎村のみの負担となっている。しかも年々の修復料が多くなってきている。⑤庄屋親子で、百姓の諸願いを勝手に処理している。この①から⑤までは塩崎村独自の要求事項であり、塩崎村の庄屋への要求事項もふくんでいた。なお、新規作成の名寄帳と本田苅付(かりつけ)帳の領民への引き渡しについては、代官の約束をかちとることができた。
いっぽう、下郷三ヵ村の領民も前述の五ヵ条の要求を現地の代官に認めさせ、籾枡も三ヵ村に引き渡すことを約束させた。さらに三ヵ村は、五ヵ条の要求を即刻江戸表へ書きたてるよう代官に要求した。そのうえで、上・下郷全領の一揆勢は二〇〇〇人ばかりで塩崎陣屋に押し寄せ、どっと雷鳴のように鬨(とき)の声をあげた。三ヵ村二〇〇〇石の百姓は「今井村」、塩崎村三〇〇〇石の百姓は「篠野井」というまといを押したて、夜七ッ時(午後四時ころ)塩崎陣屋代官清水唯右衛門宅の門内に押しいった。下郷がわは古枡八個を受けとり、上郷がわは本田苅付帳と清水唯右衛門出入りのとき差しだした配符(はいふ)を取りかえし、一時騒動は沈静化したかにみえた(『県史』⑦一九九九・二〇〇〇。以下同史料による)。
このような領民の動きにたいし、江戸表の領主がわは二月三日塩崎到着の召状(めしじょう)を発令し巻きかえしに出た。
殿様段々御れんびんの所にこのたび強訴(ごうそ)致し候段、不届きに思(おぼ)し召され候、(中略)一組五人にても一〇人にても罷(まか)りいずべく候由申され候、また、水帳受け取り候者別段に罷りいずべく候由仰せつけられ候、
として、四ヵ村から一組五人ないし一〇人と、水帳を受けとった者との江戸表出頭を命じた。このような領主がわの強硬姿勢に、塩崎村の村人は「この村には古来水帳はない」として、その旨を庄屋吉郎次をして江戸表へ返答させることにした。また、今井村では、江戸表からの召状を組頭・長百姓が見て、「路金がないので江戸表へ参る者は一人もいない。枡は打ち割っていない。また、名前書きつけの御差紙(おさしがみ)が到着しても江戸へは参らない」として、一人残らず江戸表出頭を拒否する姿勢を固め、この旨を庄屋文左衛門が風邪のため組頭惣三郎をして江戸表へ報告させた。
このような領民の抵抗にたいし、領主がわは二月十八日飛脚によって再度召状を領民によこした。その内容は、惣百姓全員の江戸表出頭令で、塩崎村の名宛人は権之丞(ごんのじょう)・半治郎の両人であった。これへの塩崎村の対応は、「御関所と御城下の宿々を相違なく通行できるように、また病人・病死人が出た場合は、在々村々で養いうけ早速取り始末できるように御手配されなければ江戸出府はできない」とした。この村方の答書をもって塩崎村の町・下町・四ノ宮・長谷の四組代表と、越組と山崎組の代表が出府した。
今井村にも、十九日、再度惣百姓江戸参上の御書付(おかきつけ)が百姓代あてに届いた。二十日庄屋が組頭・長百姓を寄せあつめてその書付を見させ、惣百姓にはその写を見させた。翌日、百姓代ら六人が庄屋宅へ集まり、江戸表参上の相談をおこない、庄屋宅へ惣百姓を集め、御書付を直々(じきじき)拝見させようとした。さらに翌二十二日には、庄屋と東・西・本郷・町の四組から一人ずつ江戸表へ出頭することになった。二月二十八日、一行は江戸久保町(文京区)の町宿(まちやど)(公事宿(くじやど))弥右衛門方へ到着し、三月四日には吟味がはじまり庄屋は手鎖(手錠)(てじょう)となり屋敷に留めおかれ、残り四人も段々吟味をうけることになった。
いっぽう、塩崎村においても三月十二日、江戸表から召状が到来し、権之丞・忠右衛門など一〇人が出頭することとなり、江戸青山(港区)町宿室(むろ)弥左衛門方へ到着した。今井村では、三月十九日の差紙で、さらに兵八ら七人が江戸甲州屋に到着している。二十三日には、塩崎・今井両村の者一同が屋敷の白州(しらす)で取り調べをうけるにいたった。このときの領主役人の尋問事項は、「騒動いたし候段」と「召状遣わし候所に御請(おうけ)つかまつらず候由」の二点であった。
この日は塩崎村の取り調べはあったが、町宿室弥左衛門方に帰された。今井村では、この日、二人が御吟味のうえ、手錠とほだ足(足かせ)の処分をうけた。さらに三日後の二十八日には、塩崎村の権之丞、今井村の五兵衛・庄助が朝の四ッ時(午前一〇時ごろ)から屋敷で用人天野久助の取り調べをうけた。権之丞は強訴の頭取(とうどり)であり、高付帳を返すよう代官らに強要したとみなされた。これへの権之丞の弁明があったが、けっきょく権之丞はその日梨の木に縛(しば)りつけられ、今井村の五兵衛・庄助両人にも縄がかけられ、三人は長屋へ入れられ手錠・ほだ足・腰縄の処分をうけた。また、同日、今井村庄屋文右衛門らの三人は手錠御免となって町宿弥右衛門方に宿預けとなった。四月十七日には、兵八ら三人も手錠御免となって弥右衛門方へ宿預けとなった。翌十八日の朝四ッ時、またまた塩崎村の権之丞が召しだされ、大目付の鈴木弥右衛門などにより山崎組から長谷組までの頭取とされ、いよいよ口書をとられる段取りとなった。これにたいし権之丞は、「頭取と申す儀ゆめゆめ存ぜず候」との反論をおこなった。また「権之丞一人で高付帳を代官から要求したのではないか」との尋問(じんもん)にたいして「私の一存ではない」と応答した。
このような領主役人の権之丞への集中的な尋問は、取り調べが進んでいくなかで、権之丞が強訴の頭取であるという確証をつかんだうえでのことであるのか、あるいはきびしい尋問への村人らの発頭人(ほっとうにん)のがれの応答が知らず知らず権之丞を発頭人に仕立てあげてしまったものか、その辺の事情は不明である。二十四日には、今井村の兵八に強訴について篠ノ井との連絡有無の尋問があり、兵八は連絡が二、三度あったことを認めた。閏(うるう)四月一日には塩崎村の権之丞ら三人、今井村の兵八ら六人が召しだされ、口書と印形(いんぎょう)をとられた。権之丞の口書の概要はつぎのとおりである。
正月十五日、篠ノ井へ年礼に行ったところ、(中略)今度下郷の代官東福寺勘助様へ五〇〇〇石の百姓一同が願書を提出した由を聞きましたが、宜(よろ)しからざることなので、挨拶もそこそこにして帰ってきました。しかし、十七日明(あけ)七ッ時(午前四時ごろ)篠ノ井の者が下郷へ罷りでよと申すので参りました。御免定の願書は不届きであり、この末いかようのお咎(とが)めを仰せつけられても致し方ありません。
また、高付帳のことは追って吟味する旨を仰せつけられた。