その後の動向を、塩崎村の「庄屋吉郎次日記」(『塩崎村史』)によってみよう。
「七月二十二日、大勢の者、御慈悲に村預け仰せつけられ、国元(くにもと)へ罷(まか)り帰り候てずいぶん相慎み、耕作は差し許す、他行罷りならず、長髪にて急度(きっと)相慎み申すべく御書付御誦(おかきつけおよ)み仰せ聞かされ候」とあり、塩崎村についての処罰はいちおう決着をみたのであった。六月二十五日には、江戸に召喚されていた塩崎村の人びとは、青山の町宿を出立、鬼子母神(きしもじん)社(豊島区)に参詣のうえ郷里への帰途についた。
六月以降の下郷今井村についての御吟味は、領主役所の処分結果のみを記すとつぎのようになった。
十月二日 五右衛門・兵八村払いの御裁許があり、当日夜五ッ時(午後八時ごろ)御門前へ追放
十月九日 今井村の惣百姓は塩崎役所へ召喚され、介右衛門(すけえもん)・忠助は五〇日間の手鎖、七之助・万右衛門・源五右衛門・辰五郎は三〇日間の押し込め、七兵衛・庄七・伊八は二〇日間の押し込め、平蔵は一〇日間の押し込め
このようにして、今井村関係においても落着(らくちゃく)をみたのであった。この月に、今井村惣百姓は連印で「これ以後不埒(ふらち)の御願いがましき儀仕るまじく」と、つぎのような請書(うけしょ)を提出した(『県史』⑦二〇〇一)。
一私領の節は年貢率が低かったが、幕府領になってからは年貢率が上がり、先年の私領のときの年貢率に御下げくださるようにとのこと
一松代・須坂・善光寺町の米相場にて金納を願いたい旨御訴訟申しあげたこと
一夫給を差しだすことは御用捨願いたいとしたこと
一御仕送り金御用捨下しおかれ候様に御願い申し上げたこと
一村方で使っている一斗六合入りの籾枡にするように嘆願したこと
右の五項目にわたる願書をにわかに出し、そのうえ代官衆宅に踏みこみ、役人衆を出府させ、立ち難き無筋の願いを徒党して申し立てたことは至らないことと恐縮いたしています。
今井村のこの請書提出と前後して、おそらく塩崎村でも同じような内容の請書を提出したと考えられる。
いずれにしろ、この一揆の発頭人層は、塩崎村では「村中の典型的な富農層であり、村役人層によって指し起こされて」(『塩崎村史』)いるし、今井村においても、前記のように領主への五ヵ条の要求の願人には、一二人の百姓代が名を連ねている。両村とも庄屋はむしろこの騒動には消極的であり、しかも塩崎村では要求一三ヵ条のなかに、庄屋への要求項目四ヵ条がふくまれさえしている。塩崎知行所においては、財政の窮乏化にともない領民の掌握(しょうあく)上、現地の有力な庄屋層を陣屋代官に採用することを得策とした。現に上郷では、宝暦七年(一七五七)に庄屋清水唯右衛門を現地代官に取り立てており、陣屋役所も清水唯右衛門の屋敷内に普請されていた。下郷においても、上氷鉋村代官の東福寺勘助は同村の庄屋級からの取りたてと考えられる。宝暦十二年時点の塩崎・今井両村の庄屋も、清水・東福寺両氏に準ずる「所の代官」的存在となっていたのではなかろうか。
桝騒動の主体は庄屋ではなく、組頭や百姓代であった。庄屋が「所の代官」的存在になった段階で、村の新しい実力者として組頭・百姓代が台頭し、庄屋にかわって小百姓の代弁者たらざるをえなかったのであろう。このことは、江戸に召喚された権之丞への郷里の親族の書簡に、つぎのようにあることからもうなずけよう。「この末、いかようの曲事(くせごと)仰せつけられ候とも、申し訳御座無く候と申す書き付け、官兵衛はじめ甚左衛門そのほか一家残らず印形致し候由承り候、この上は貴公様御一人にて押し強く候ては、宜しからず存じ奉り候、ひっきょう小百姓強(た)って願いたき由申し候わば御願いもなされ、先日越組にては何分相願いたき様に申し候につき、大方御吟味の節は押し強く只今までは御申しなされ候と存じ候も、この末はいかようにも印形され、早速相すまし候様になさるべく候、最早(もはや)このたびの願いは決して用立ち申すまじくと存じ候、さきざきこのたびは少々曲事等御座候とも、人並みになされ御もっともに存じ候、用立ち申さざる儀に心を尽くし候こと、無益の次第に存じ奉り候」(『塩崎村史』)。
この書簡からはまた、上郷の村人が自分たちの諸要求が不当であったと認めて、領主がわに詫びをいれていくなかで、権之丞らが最後まで抵抗の姿勢をくずさなかったことが判明する。一揆勢として行動をともにした村人が一人、二人と脱落していくなかで、権之丞らの心中には、領主に抵抗することについて微妙に揺れ動くものがあったであろう。しかし、権之丞はこの一揆でとった態度について、その正当性を自分自身に言い聞かせたに違いない。そのことが、騒動後の覚書である「塩崎村騒動書」の巻首にある吟歌となり、宝暦十三年十一月に詠んだ俳諧(はいかい)となったと思われる。
すいろう(水牢)責めにあいながら吟ず
身は責めにあふともこころ清ければいつも変わらぬ庭の老松
身の上埒(らち)あき候につき
身のあかを荒いあらいして水仙花
なお、権之丞は、帰村後華道にも精進し、安永二年(一七七三)池坊(いけのぼう)に入門している(『県史』⑦二〇〇六)。また、下郷今井村の枡騒動の発頭人の一人とみなされた兵八の村払いの赦免願いは、八七歳の父親平蔵から明和二年(一七六五)二月に出されたが、その願いは実現されなかった(『堀内家文書』)。