善光寺町米騒動

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文化十年(一八一三)の秋は諸国が不作であった。善光寺町も例外でなく、六月中旬までは白米が銭一〇〇文につき一升六合ぐらいであったものが、日がたつにつれて追いおいとあがり、九月下旬には一升一合(『県史』⑦二〇四四)となり、小前百姓などが難渋した。米価騰貴の背景には、善光寺町の米穀問屋の米の買い占めも考えられる。

 十月十三日夜五ッ時(午後八時ころ)すぎ、大勢の者が湯福(ゆぶく)神社のほうから法螺貝(ほらがい)・小太鼓(こだいこ)持参で大声をあげて善光寺伊勢町の穀問屋升屋(ますや)平右衛門宅らにいき、居宅表の雁木(がんぎ)を引き落とし、蔀戸(しとみど)を打ち破り店に積んであった穀物を持ちだし撒(ま)き散らした。さらに新町(しんまち)の長次郎宅を襲い、かんぬきを引きはずしてなかへ入り米俵を残らず切り破り、さらに大門町の酒造業者松屋へいき、小桶(こおけ)・半切(はんぎり)(底の浅い桶)などを打ちつぶし酒を飲んだ。さらに西町の銀兵衛など四人の宅にいき、横沢町・桜小路(桜枝町)・西之門町を通って酒造業の吉野屋へ押しかけた。同店では酒を出して接待した。新町にもどり俵屋吉右衛門宅などを打ちつぶし、岩石(がんぜき)町の七左衛門方へいった。そこでは、さっそく食べ物をこしらえ、羽織(はおり)・袴(はかま)で酒などを出してもてなし、騒動勢に詫びをいれた。さらに、騒動勢は東町佐右衛門宅など四軒と横町穀屋幸右衛門宅を急襲した。


図2 19世紀前半の善光寺町概念図
(『長野市史』により作成)

 それから再度、大門町へ出て小升屋で酒を飲み、鐘鋳川(かないがわ)をこえて松代領の後町(妻科村後町組)に押しかける勢いであった。そこで、後町がわでは大門町との境に梯子(はしご)を並べ、とび棒・薪(たきぎ)などを持参して説得に努めたがなかなか聞きいれず、双方で大声をたて薪(たきぎ)・桶などを投げあい、たたきあった。騒動勢からは、屋根の石・瓦を大勢で投げてきた。これにたいして、後町がわでも近所の屋根にのぼり、屋根の石・瓦などを取りなげた。後町がわでは騒動勢の勢いに押されて退散せざるをえなかった。騒動勢は、さらに後町の酒造業者山屋までいき、表の格子戸を打ち破って乱入した。山屋では半切に酒を入れて提供したが、騒動勢はその半切を打ちつぶして引きあげた。さらに、足袋屋甚七宅の戸障子を打ち破って家へ押しいり家財を打ちこわし、仕立て場にあった足袋四四〇から四五〇足、足袋布二〇反余、その他銭箱の四貫文余をうばった。

 当時、幕府領の権堂村(鶴賀権堂町、天保二年(一八三一)から松代藩御預り所)でも、打ちこわしに備えて村境を固めていたが、後町のようすを聞いて固めを引き払い、寺院を頼んで詫びをいれたので、騒動勢は権堂村には押しかけなかった。このようにして、打ちこわしは善光寺町から松代領後町にまでおよんだが、騒動に参加した群衆は、夜八ッ半時(午前三時ころ)いずれともなく逃げ散ってしまった(『県史』二〇四三・『朝陽館漫筆』)。

 この騒動で、襲撃された家は穀問屋三軒、穀屋一八軒、酒屋一軒の二二軒であり、善光寺領以外では松代領で四軒であった。当時、善光寺町の穀屋は全部で二七軒であったから、その大半が被害をうけたことになる。その被害状況は、もっとも激しいものでつぎのとおりであった。表雁木が引き落とされ、蔀戸が打ち落とされた。店に積んであった穀物が持ちだされて撒き散らされ、さらに家財が打ちこわされ、着物も取りだされて引き裂かれた。そのうえ、店の奥にある土蔵が打ち破られ、俵物が多く往来筋へ持ちだされ、長持・箪笥(たんす)などや仏壇などまでが打ちこわされて、銭箱なども持ちだされ銭が紛失した。しかし、襲われた家々の多くは、表戸を打ち破られて乱入され、店にあった穀物が撒き散らされる程度であった。また、なかには羽織・袴で酒の接待をおこない、騒動勢に詫びをいれて難をまぬがれた家もあった。

 この騒動について、善光寺大勧進は幕府寺社奉行へ、また松代藩も幕府寺社・勘定両奉行へ報告している。

 このように、文化十年十月の善光寺町米騒動は、あっというまに終わったが、騒動が寺領のみにとどまらず、他領の松代領にもおよび被害が生じたこと、また、騒動に加わった人びとの逮捕に善光寺役所は松代藩役人を頼んだことなどが、その後の寺領と松代藩とのあいだに紛糾をもたらすことになった。

 善光寺役所は、逮捕者はみずからで吟味すべきではあるが寺領のことでもあり、このようなことは松代藩に御願いしたほうが得策だと考えて、騒動参加者の探索を松代藩に依頼した。それをうけて、松代藩はその後も断続的に寺領に入って探索をおこなったが、いちいち善光寺大勧進に断わったうえでのことではなかったので、善光寺がわはそれにつき抗議を申しいれたが、容易には聞きいれられなかった。これにたいする松代藩のいい分は、いちいち事前に連絡したうえでの逮捕では、騒動参加者に事前に漏(も)れてしまい逃げられてしまうとのことであった。また、松代藩役人は後町の名主方に詰め、逮捕者は松代へつれていかれ、そこで取り調べをうけた。逮捕者のなかには、無実の者もふくまれているとのうわさもあり、寺領では不穏な空気がみなぎった。また、善光寺町で打ちこわしにあった米屋なども松代で取り調べをうけた。

 また、幕府領権堂村は、善光寺領に隣接し、逮捕者のなかに権堂村の住人が一人いたこともあって、幕府の中之条代官所(坂城町)の役人が同村に詰めた。また、松代領後町の南につづく問御所村(鶴賀問御所町)は越後椎谷(しいや)領であったので、椎谷藩六川代官所(小布施町)の役人寺島善兵衛も問御所村に出張してきた(『県史』⑦二〇四二)・小林計一郎『長野市史考』)。

 善光寺大勧進役人上田丹下(たんげ)や大本願役人吉村富右衛門らは松代へ出向き、寺領での逮捕人や打ちこわしにあった穀屋などの早期の釈放を求めた。その結果と思われるが、十一月三日には酒屋八郎治など六人、四日には無罪の者八人が松代から返された。帰宅を許された穀屋は、すぐに営業再開というわけにはいかず、他行(たぎょう)も差しとめられた。最終的には、騒動に参加して処分された人びとは、つぎの一一人であった(『市誌』⑬一九五)。

横沢町 佐太郎 牢舎(ろうしゃ)、 大門町 茂左衛門借屋馬士 喜惣治 囲いに差置、 西町 長三郎・権七 手鎖(てじょう)・腰縄、 西町 嘉七倅欠外し兼吉兄 半兵衛・嘉惣治 町宿預かり、 東町 弥七借家 善蔵 手鎖・腰縄、 東町紺屋 覚佐衛門 牢舎、 後町村 鍋屋久蔵 牢舎、 東町 作左衛門 牢舎、 桜小路 茂兵衛 囲い

 ただし、処分をうけた者は女性一人をふくめて一七人であった、とする記録もある(『県史』⑦二〇四二)。いずれにしろ、この事件に参加した人びとは、借家層などの下層町民と考えられる。事件直後、大勧進代官は前例のない御用金三七〇両を富商に課して米を買い入れ難民に支給した。同年十月十五日に椎谷領問御所村の穀屋新兵衛は、「他所へ穀物いっさい差しだし申さず、占め買い・占め売りなどは申しあげるまでもなく、正路に家業を営む」と六川代官所(小布施町)に請書を提出している(『県史⑦二〇四四)。おそらく、寺領の穀屋も同じ趣旨の請書を寺領役人に提出したと思われる。大勧進代官はその後も積み穀(貯穀)を寺領の人びとに命じたり、天保飢饉(ききん)のときは穀類を買い入れて寺領が食糧難におちいることを防いだりする(『長野市史考』)。これ以降、寺領では明治三年(一八七〇)の松代騒動まで一揆騒動はおこらなかった。なお、寺領外ではこれ以前、飢饉の最中の天明四年(一七八四)十二月善光寺領に接する三輪村(三輪)で、「騒々しき筋」がおきていた(『県史⑦一七九七)。


写真5 文化10年(1813)善光寺米騒動について記録した「松代藩江戸留守居日記」(国立史料館蔵)