一八世紀半ば以降の松代藩政の改革を考えるときに、『日暮硯(ひぐらしすずり)』の存在は無視できない。しかし、『日暮硯』は改革の正確な記録ではない。『日暮硯』は松代藩以外の人物が、恩田木工(もく)の帰依(きえ)した僧からの伝聞にもとづいて書いた書物である。笠谷和比古(かずひこ)が指摘するように、『日暮硯』の研究が進めば、成立年代が宝暦十二年(一七六二)十一月十五日と特定される可能性もある。そうなれば、恩田木工が死亡した十二年一月六日以前から、つまり改革政治と同時進行で書かれた可能性も出てきて、宝暦改革を理解するうえでの史料的価値は高まることにはなるであろう。
しかし、そうであっても『日暮硯』はあくまでも伝聞(でんぶん)史料であり、改革政治の正確な事実をそこから読みとることはできない。改革の当事者が残した諸記録と比較して食いちがいがあるのはむしろ当然であろう。けれども、『日暮硯』はまぎれもなく恩田木工の政治の伝聞である。その『日暮硯』が日本全国で書きうつされ、その結果さまざまな異称本が存在するという事実は何を物語るのであろうか。恩田木工の改革は当時の人びとが抱えていた問題に正面からこたえる内容をもっていたから、改革直後から全国に流布し、改革政治の典型として知れわたっていったのであろう。
『日暮硯』は恩田木工の政治をつぎのように描く。恩田は若き藩主六代真田幸弘(ゆきひろ)に松代藩の財政改革をおこなうよう一任される。しかし、かれは自分一人の努力では財政改革は不可能であると考え、江戸屋敷で幸弘から財政改革を一任されたときに、諸役人から「拙者(せっしゃ)申す儀を何事に依らず相背(あいそむ)くまじく」という誓詞(せいし)をとることに成功した。そして、改革の基本理念を「虚言(うそ)申すまじく」とし、まず家族と親族一門にこの理念の徹底をはかった。この徹底の仕方は、自分ばかり虚言をいわないと主張し実行しても、身の回りにいる者が破るようでは信頼されないとし、家内一門に義絶を申し渡した。それに驚いて訳を問いつめた家内一門は、恩田の「虚言申すまじく」という改革理念を守ることを誓うのである。あわせてこのとき、木綿しか着ない、飯と汁よりほかは食さない、という倹約生活も誓わせる。真田家中へは給料はきちんと払うから、御奉公に疎略(そりゃく)があってはならない、もし疎略がある場合はきびしく処分すると申し渡した。そして、藩主が帰国するのを待って、領内の百姓を一ヵ所に集めて「向後(こうご)虚言はいっさい言はざるつもりゆえ、申したる儀ふたたび変替(へんたい)致さず」と百姓たちに改革理念を誓うのである。さらに「向後は手前と皆の者どもと肌を合わせて」相談して財政再建をやっていこうと依頼する。そのうえで、先納した年貢は藩から返済しない代わりに、未進年貢の取り立てもおこなわないことにし、今年度の年貢はかならず皆済すること、以後滞納しないことも約束させた。そして木工は、進物(しんもつ)(賄賂(わいろ))はいっさい不要、年貢催促(さいそく)の足軽回村はやめる、夫役(ぶやく)を申しつけることもしないと百姓たちに約束し、年貢の納入に専念するように申し渡すのである。
さらに、木工は百姓たちに役人の不正を封書にして提出するように命じた。不正をした役人は当然処罰されると覚悟したが、木工は処罰することなく、自分の相役(あいやく)として改革に協力するように要請した。こうすることで不正役人の改心がおこなわれ、藩内の不正はなくなり、松代藩政はうまくおこなわれるようになった、と『日暮硯』は記す。
『日暮硯』が同時代の人に受けいれられた理由の第一は、「嘘(うそ)をいわない」という改革理念を示し、藩と百姓との信頼関係を取りもどしたことにあった。
宝暦十二年(一七六二)に宝暦騒動とよばれる惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)を経験した上田藩では、郡奉行桂(かつら)角左衛門吉治は「これまで数年来百姓をだまし候ものゆえ、何事を申し付け候ても信じ申さず、役人を相疑い候」(「政事録」)と反省し、百姓の信頼回復のため百姓を騙(だま)さない、嘘をいわないということが徹底されなければならないとした。松代藩でも天明四年(一七八四)、山中(さんちゅう)百姓は松代藩政を「御勘定様方その懸(かか)り懸りにて愚意(ぐい)の山中御百姓御だまし成され」(『県史』⑦一八〇四)と批判した。深刻さを増す財政窮乏にたいして、百姓たちの納得を得ないまま、場当たり的な対応しかできないできた藩政を痛烈に批判しているのである。この背景には、社会の変化にともなう藩政の混乱があった。小商品生産の展開は市場価格を成立させ、その結果「米価下直(げじき)、諸色高直(しょしきこうじき)」という経済現象を生みだす。このため、年貢米の増徴が単純には収入増加ということにならず、社会の変化に対応した新たな収奪の方法を考えなければならなくなった。上田藩も松代藩も社会の変化に対応できず、新しい支配を模索(もさく)して試行錯誤(しこうさくご)を繰りかえしていたのである。「嘘をいわない」という改革理念を政治に反映させるためには、小商品生産の展開に対応した政策の確定を早急におこなわなければならなかった。
もうひとつ重要なことは、この江戸中期になると百姓一統(いっとう)という意識が自覚されてきたことである。兵農分離という幕藩制国家の原理から、武士や商人を養うのは農業に従事する百姓身分のわれらであるという意識が形成されてくる。百姓は農業生産者として幕藩制国家を支えるのであり、農業生産者からなる百姓的世界を守ることは正当なことだとされた。そして、幕藩権力の一端に連なる村役人の不正を追求する村方騒動を経験することで、百姓一統という形で武士たちの不正や恣意(しい)的な政治を批判する能力を身につけていった。成長した百姓たちと協力関係をどのように築くかということが当時の藩政の課題であった。成長した百姓たちを前に場当たり的な対応は許されず、百姓たちが納得のいく政治の筋道が必要とされていた。国学者本居宣長(もとおりのりなが)は「すべて命令の趣は、ことごとく道理のつみたる事にあらざれば、下の心から帰服はせぬものなり、いささかにても、上の勝手にまかせて、尤(もっとも)ならざる事のまじるときは、うはべこそ威勢に畏(おそ)れて、服せるやうなれ、内々にてはあざ笑ひて、中々帰服はせず」(『秘本玉くしげ』下)と道理ある政治の重要性を強調していた。
『日暮硯』が世に迎えられた第二の理由は、武士の新しい生き方を提示したことにあった。『松代町史』上・下巻の著者でもある大平喜間太(おおひらきまた)は『恩田木工民親(たみちか)伝』のなかで、綿貫(わたぬき)五兵衛にあたえた母親の手紙を紹介している。「御やく(役)は時のこと、武道は本やくにて御座候。かならずかならず御すて成られまじく候」。綿貫五兵衛は代官として農政の前線で活躍していた武士であった。平和な世の中で武士の軍事的な役割が減少していくいっぽうで、財政の深刻さは進み、為政者としての武士の役割が高まっていく時代である。多くの武士たちは当然、いかに生きるべきかと悩んでいた。そのようななかで、武士は為政者としていかにあるべきかということを、単なる精神論で終わらせるのでなく具体的に示したのが日暮硯であった。日暮硯は政治への取り組みを命がけの武士の仕事とし、合意形成の仕方、百姓たちとの信頼関係の回復、役人たちの能動性を引きだすやり方、政治の公正性の作り方といった政治技術にまで言及することで、武士の新しい生き方を示したのである。