『日暮硯』の内容がじっさいの恩田木工の改革の事実と食いちがうのは当然である、と先にのべた。武士の給料を全額払うようにしたとか、未進金の徴収をしないことにしたとかは事実と違うし、そもそも恩田木工の改革によって松代藩の財政が立ち直った、ということも事実とは違っている。しかし、『日暮硯』はまぎれもなく恩田木工の改革の伝聞であることも事実である。それでは、恩田木工の改革、すなわち松代藩宝暦改革について『日暮硯』が伝えた事実とは何であったのだろうか。恩田木工にたいする藩内の風聞から考えてみることにする。松代藩には寛延四年(宝暦元年、一七五一)と天明四年(一七八四)に大きな騒動が起きている。前者は田村騒動とよばれ、後者は天明山中(さんちゅう)騒動とよばれている。田村騒動は惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)となったが、天明山中騒動は山中とよばれる西部山間地の小百姓のみによって起こされた。この二つの騒動は騒動記を残しており、恩田木工にたいする当時の人びとの評価も記されている。
恩田木工にたいする評価のひとつは、松代藩政の救世主という評価である。田村騒動が起きると、五代藩主信安は「一ヵ村から三人ずつ召し捕り打ち首にしろ」と命じたが、恩田木工は信安に思いとどまるように諫言(かんげん)し、それがいれられなければ切腹すると迫ったという。これによって、松代藩は幕府から失政を咎(とが)められることもなく、「恩田木工の一心にて事静まり候」と伝えている。この風聞は鎌原桐山(かんばらとうざん)も『朝陽館漫筆』に記しており、藩内では広範に流布していたと思われるが、「しかしながらこれらの機密人の知るべき事ならねば真偽(しんぎ)はいかがありしやらん」と、鎌原桐山は醒(さ)めた目でみている。
もうひとつは、混乱した藩政を整理し、新しい政治をはじめたという評価である。天明山中騒動記で百姓たちはつぎのように要求する。「何事も御大法はもちろん、御家風にて御百姓取り扱いの儀、先年御月割り御上納仰せつけられ候恩田木工様の通り成し下され候わば、別段御願い御座なく候」。ここから、恩田木工は百姓の納得のうえで新たな政治をはじめたこと、恩田木工によって新しい家風(「嘘を言わない」)を作ったと百姓たちは評価していることが分かる。以上の二点は日暮硯の記述と一致している。全体的に評価すれば、『日暮硯』の記述と同じく恩田木工の政治を領内の人々は仁政(じんせい)と受けとめている。そのような評価がなければ、小松成章(当時の松代藩士で国学者)はつぎのような一文は残さなかったであろう。
恩田民親(木工)は近世の賢臣といふべし。上を敬(うやま)ひ、下をめぐみて、仁徳(じんとく)ふかかりければ、一人もこの人をいただかざるものなし。一とせわが君前栽(せんざい)をつくらせたまふとて、松などとらせたまひけるに、民親みづから五百疋(ぴき)ばかりのあしして、酒とりよせ、彼の人どもにのませけり。わが君のたのしびたまふべき事に、人のくるしまんは不祥なりとて、かくはからひしなり。此の人病あつしと聞きて、国民なげきわづらひ、我も我もとつどひあつまり、日待(ひまち)といふ事して、本復を祈念しあへり。されども、際りにやありけん、つひにむなしくなられにたれば、たれもたれもみな力をうしなひて、む月にありけるが、誰がをしふともなきに、松などとりいれ、うたひものの音をも遏密(あつみつ)して、ひそまり居りける。ものの本にて見、むかし物語は聞きしが、かくばかり人のしたひつきしを見たりしは、此の時はじめなりけり。上の御門葉などに不諱(ふい)のこと侍(はべ)るころ、上より停止(ちょうじ)させたまふにも、しのびては舞ひ、うたふとも、いつかは心よりさはしたりし。まことに、有りがたき良臣にておはしけり(『春雨草紙』)。
しかし、天明山中騒動記のつぎのような記述は何を意味するのであろうか。「宝暦八年より一〇ヵ年のあいだは、一〇両に籾六〇俵交換が城下町の相場であれば、それより六俵高が御立(おたて)相場(金納相場)になった。同じように、五〇俵代の時は五俵高、四〇俵代の時は四俵高、三〇俵代の時は三俵高が金納相場になった。しかし、一〇年前から五~六〇俵の時は一〇俵高、三~四〇俵の時は八俵高に金納相場が決まるようになった。山中は年貢は残らず金納であるので非常に難渋している」。また、天保七年(一八三六)、埴科郡倉科村(千曲市)の高地筆吉はつぎのように記した。「宝暦のころ、真田様は公儀から一万両を無利子で拝借した。そして、その金子を高利で百姓に貸し付け、それによりお勝手(財政)が立ち直った」(『県史』⑦一七五九)。
恩田木工という個人をとってみれば確かに人格者であった、と思われる。かれの政策は合理性をもち百姓も納得させる形で新しい政策を実行した。しかし、松代藩が置かれた条件のなかで、相場と利子を利用して貨幣経済に対応した新たな収奪の方法を確立したのも恩田木工なのである。江戸時代といえどもむき出しの収奪はもはや実施できるわけではなかった。武士の支配は、ときには仁政の装(よそお)いをとり本質を覆(おお)い隠しながらも、武士と百姓は利害が対立する関係である。恩田木工の死後、松代領内の百姓たちは新たな収奪の方法が確立されたことを知った。天明騒動記で「御上の御為に宜(よろ)しく候えば、下々(しもじも)御百姓の為に悪しく、これ眼前の理(ことわり)に御座候」と言い放った百姓たちもそのことに気づいていたであろう。少しばかりの難渋は「上と下との事」であるから我慢する、と主張する百姓は、武士と百姓が本質的には対立するものであると気づいている。山中百姓はむしろ恩田木工の改革を理想化することで、自分たちの要求を正当化しようとするのであり、そこに成長した百姓たちのたくましさを見てとるべきであろう。