表6と表7は「享保(きょうほう)三戊戌(つちのえいぬ)川中島拾万石御物成并(ならびに)御小役御勘定相極(あいきわめ)御目録」(『松代真田家文書』国立史料館蔵)より作成した。表の数値の単位は両で、両以下の数値は四捨五入した。また、A~Jは代官名を示している。享保三年(一七一八)の藩の収入籾は一二万俵余(ほかに知行渡し籾が六万七〇〇〇俵余ある)である。そのうち、年内皆済できた分は約八万俵、残りの約四万俵は年内皆済できず、享保四年以降金納されている。表6は、その四〇〇〇俵のうち、享保四年分に限ってその金納状況を示したものである。表7は未進分の納入状況を月単位でまとめて表記した。
全収納籾の三割が未進となっているが、未進が特定の代官にかたよっているわけでなく、一〇人の代官の未進率はそれぞれほぼ三〇パーセントである。年貢の三割が皆済されない、というのが享保期(一七一六~三六)の財政の特徴であろう。これまでの未進が重なり、その返済にあてるために当年度の年貢が皆済できないという構造は享保期にはできあがっている。最終的に享保三年の年貢が皆済されるのは二八年後の延享三年(一七四六)であるが、それでもこの段階では三年後の享保六年までに約九割を上納している。しかし、これ以降、未進金の上納がより困難になっていくことが予測できる。
表6、表7は未進金の納入状況であるが、この時期の松代藩が金納を命じたらどのようになるか、ということもこの表は反映している。この表は享保三年の分だけであるが、他の年も加えたらもっと複雑な納入状況になるであろう。右に述べたように、この時期には完済にはならないにしても、年貢の九割方の上納を三年間で済ませていることから考えると、一年間で松代領村々が金納する額は一万両程度であろう。当時の松代領では米以外でも、里郷の木綿、山中の麻を中心にさまざまな商品作物がつくられていたが、同時期に多額の換金を各村がおこなうことは不可能であった。したがって一万両を金納すると、表6、表7のように分割して納入せざるをえないのである。これ以降の松代藩政はこのような年貢の納入状況を藩が統制し、合理的な納入方法を確立していった。
図3は松代藩の全収納籾と藩の実収入籾の推移を追ったものである。松代藩は内高約一二万石のうち、蔵入地(くらいりち)高約七万石、地方(じかた)知行高約五万石であった。また、寛保(かんぽう)元年(一七四一)には地方知行高が半減され、蔵入地高約九万五〇〇〇石、地方知行高約二万五〇〇〇石となる。松代藩では財政窮乏への対応として、享保十四年(一七二九)いらい半知借り上げといって知行主の収入の半分を借りるという政策をおこなっていたが、寛保元年からは知行地の半分が蔵入地に編入された。
図3は、財政窮乏を家臣団へ負担を転嫁(てんか)することで凌(しの)ごうとしていることと、寛保二年の戌(いぬ)の大満水が藩財政にあたえた影響がいかに大きかったかを示している。松代藩全体の収納籾は寛保二年の前後に二分されることはグラフをみれば明白である。戌の満水以前の全収納籾は最低でも一四万俵以上であり、享保三年は約一九万俵を記録している。しかし、寛保二年以降の全収納籾は一二~一三万俵に固定してしまうのである。藩の実収納籾は享保三年ころには、一二~一三万俵あったが、享保期(一七一六~三六)の後半には半知借り上げを実施してようやく同程度の実収入しか確保できなくなり、さらに、戌の満水以降は知行地の半分を蔵入地に組みこんでも、じっさいの収入は九~一〇万俵に固定してしまうのである。松代藩は財政基盤を拡大しても、その効果はなく逆にじっさいの収入は減少するという事態にいたるのである。ただ、戌の満水を藩の財政が悪化した大きな要因である、とする評価は慎重でなければならない。元文(げんぶん)期(一七三六~四一)からの全収納籾の減少は何を意味するのであろうか。寛保以降の全収納籾の減少はもっと構造的に理解しなければならない。おそらく、松代藩の年貢増徴は潰(つぶ)れ百姓を増大させ、村々を荒廃させた。松代藩の年貢未進が享保十五年(宝暦改革で処理の対象とされる未進金はこの年以降のものである)から増大するのはそのことの反映であろう。戌の満水はその村々の荒廃をよりいっそう深刻化させた。