寛保改革と月割り上納制

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寛保元年(一七四一)には前に述べたように、地方(じかた)知行高の半分が蔵入地に編入されるという政策が実施された。この知行地の蔵入地への編入は、五月二十四日、家臣団を登城させ、倹約令とともにいっせいに命令された。そして六月、月割り上納令が出される。これまで、この月割り上納令は家老原八郎五郎によって出されたといわれてきたが、当時の藩政史料からみると、元文四年(一七三九)に御勝手向御用を仰せつけられた河原舎人(かわらとねり)が政策の中心にいたと考えるのが妥当であろう(柄木田文明「原八郎五郎と月割上納制」)。それでは、この月割り上納令をみてみたい。

①本納と半知分を合わせ、その分は代金納として先納させる。そのかわり、古い未進年貢はもちろんのこと、前年の申年(さるどし)(元文五年、一七四〇)までの未進年貢などは、しばらくのあいだ免除する。

②先納の仕方は、籾一俵につき銀一八匁の割合で一二ヵ月に分割し先納させる。したがって、毎月一匁五分(ふん)ずつ納入することにする。年末での米相場の高下による調整はおこなわない。

③すべて月割り金納ではなく、御膳米(ごぜんまい)や御飯米などは現物納である。

④未進金の取り立てや、御扶持籾・御切米籾などの取り立てに多くの役人らが村に行くので接待費などがかさむ。月割り金納を実施している限り、村方へ催促のために人を遣わすことはしない。したがって、毎月、滞りなく上納すること。もし、小百姓らが先納できないようであれば、村役人が援助して上納すること。

 恩田木工の実施した宝暦八年の月割り上納令と近似している。しかし、明らかに違うのは金納分が最初から割高に設定され、年末に米相場の高下による調整はおこなわないとしていることである。籾一俵=銀一八匁とすれば、金一〇両=籾三三俵である。当時、松代藩では籾の金納への換算が一〇両=四〇俵以上でなされていたことから考えれば、露骨な搾取がおこなわれることになる。宝暦改革では、代金納の換算相場をいかに百姓にたいして納得させるのかという点に十分に意を配っている。その意味で、この寛保元年段階では百姓たちとのあいだに金納相場をめぐる対立が大きな問題点となっていなかったといえよう。

 藩財政の状況のところで、享保三年の年貢納入状況をみた。そこでは、年貢の未進にあてる分があるために、当年度の決済ができなかった。さらに、未進分は各代官が月々代金で徴収しており、じっさいには月割り金納と同じ状況になっていた。そのような実態を踏まえたうえで、寛保元年の改革とは、知行地を蔵入地に編入することで藩の財政基盤を拡大し、金納相場を意図的に操作することで年貢増徴を実現しようとした政策であった。そして、役人の接待などの諸負担をできるだけ軽減し、未進金の上納を凍結することで、当年度の年貢上納に専念させようとした。そのときに、未進金の上納にあてられていた事実上の月割り金納部分を当年度分の上納金に切り換え、代官任せにしていたその徴収も藩が一括管理することにした。

 このようにして、これ以上未進金が増大することを防ぎ財政の建て直しをはかったのであった。いわば、家臣団と村々に負担を転嫁(てんか)することで財政窮乏を切りぬけようとしたのである。しかし、寛保二年の戌の満水によってこの改革は簡単に頓挫(とんざ)する。大洪水による村々の荒廃によって、藩の財政規模は改革前よりも小さくなってしまった。また、そのなかで村々の年貢未進は増大し、家臣団への給料の不払いも常態化していった。こうして、藩財政は窮乏と混迷を深めることになり、新たな改革が必要になるのである。