戌(いぬ)の満水のあと、藩政を任されたのは原八郎五郎であった。かれは元文元年(一七三六)に一三歳で家督を相続し岩尾を名乗った。翌二年には五代藩主信安の小姓になった。さらに、一六歳のときには御側御納戸役(おそばおなんどやく)見習いに任命されている。戌の満水のあと、寛保四年(一七四四)二一歳になった原岩尾は中老になり、延享二年の正月十六日には御勝手御用も命じられ、藩政全般を統括するようになった。あわせて同日、依田左十郎・奥山勘助・片岡文蔵・渡辺清右衛門が「御勝手向き懸り合い」に任命され、原岩尾を中心とした藩主信安の側近グループ(七人衆と称され原はお頭(かしら)とよばれた)による改革推進の体制が確立した。原はこのあと、名前を小隼人(こはやと)、八郎五郎とかえる。
原の改革は鎌原桐山(かんばらとうざん)が「寺尾村の西へ堀川を穿(うが)ち分水せし故、それ以後松城水難なし。この分水の策、小隼人生涯の大功なり」(『朝陽館漫筆』)と評価するように、千曲川の瀬直しなど治水対策では大きな成果を残したが、混乱した藩財政を立て直すことができず、足軽層の反発を招いて失脚するのである。