それでは、足軽たちへの給料未払いの実態とはどのようなものだったのであろうか。宝暦改革を実施するために、寛保二年(一七四二)の戌の満水以後八年間の扶持米・切米の未払いの実態を調べた報告書(「寛保三亥年より寛延二巳年迄之間御扶持方滞り人別覚」『松代真田家文書』国立史料館蔵)が残されている。それによると、戌の満水以後、寛延三年(一七五〇)までの未払い分は、玄米払い分が一六四六石二斗八升六合、籾払い分が四三一一俵二斗八升三合六勺である。それらをすべて籾に換算すると一万一〇〇〇俵ほどになる。平均すると、毎年約一四〇〇俵ほどの給料が支払われていないことになる。宝暦八年(一七五八)の勘定目録(『市誌』⑬二八)では蔵米取りに支出されるのは約一万五〇〇〇俵であるから、毎年一割弱が支払われていない。表8は一人当たり何年分の給料が未払いなのか、その実態を概観するために作成した。一年分の給料は宝暦十二年の分限帳(ぶんげんちょう)(松代町 矢野盤蔵)と照合した。未払い率というのは、未払い分を一年分の給料で割って一〇〇パーセント換算した数字である。三〇〇パーセントというのは三年分の給料が未払いという意味である。不明分は分限帳と照合できなかった者の数字である。また、「御扶持方滞り人別覚」は御駕籠(おかご)の者、御馬屋仲間(おうまやちゅうげん)、御畳刺(おたたみさし)、御具足師(おぐそくし)といった「仲間(ちゅうげん)」と称される下級武士は別記載になっているので、集計もそれにしたがった。
蔵米取り家臣団のうち、計上された約半数の者にたいして半年分以上の給料が支払われていない。未払い率が三〇〇パーセントをこえるのは奉中院・向当院・承松院・正覚院・安養院という寺院である。武士では、玄米五人扶持(籾に換算して約三五俵)の丸山友之丞(とものじょう)は籾八六俵が未払い、金四両籾三人扶持(籾に換算して約三七俵)の久保喜平太は七九俵が未払いである。また、仲間らの下級武士も四〇パーセントの者が半年以上の給料が支払われていない。
未払い率の高い者をあげてみると、御堂鐘撞(かねつき)宗念の給料五二俵が未払いである。宗念の一年分の給料は一六俵なので、三年分以上の給料が支払われていないことになる。また、一年分の給料二二俵の御草履(おぞうり)取り銀次郎は四八俵が未払いで、二年分以上の給料が支払われていない。給料の総額が不明な者もあるので、この数字はあくまでも概算だが、事態の深刻さは理解できよう。
このような給料の未払いは武士の不満をしだいに高めることになった。寛延三年に足軽騒動が起きるのであるが、そこにいたるまでの武士の動向を『監察日記書抜(かきぬき)』(『真田家文書』真田宝物館蔵)で追ってみることにする。
元文五年(一七四〇)十月朔日(ついたち)、「近来御侍どもの風儀が悪く、病気の時も夜話などに出かける輩(やから)もあるという。そのうえ、作病(さびょう)(仮病)をつかい長いあいだ引きこもるという、我が儘(わがまま)もあるようだ。これ以後、大病はいたしかたないが、たいした病気でもないのに引きこもっている面々には医師を遣わして吟味をするので、承知しておくように」という触れが出された。給料未払いへの不満は仮病などによるサボタージュを引きおこした。寛延二年九月晦日(みそか)には、小頭(こがしら)七五人が代表して、給料未払いの不満を御普請奉行へ訴えでた。月番の窪田新平をはじめ、同役の者もいろいろなだめたが得心しなかった。小頭らは御用番の宅まで押しかけ訴えるので、夜更けに給料支払いを約束してとりあえず急場をしのいだ。小頭たちは要求がかなったので退散した。十月十一日、小頭たちの要求にたいし藩がわが対応する。原小隼人(こはやと)(八郎五郎)は諸役人を登城させ、半知借り上げ政策が多くの不満を生み、トラブルを引き起こしているとし、来年より五〇石以下の面々は半知借り上げを免除すると申し渡した。
しかし、このような藩の対応も武士たちの不満を解消することができず、寛延三年に一挙に爆発した。正月朔日、足軽は一致団結して職場放棄をおこなった。『監察日記書抜』にはつぎのように記されている。「今朝、御足軽残らず銘々詰場(つめば)退散。諸御役人の附人(つけびと)ならびに使番(つかいばん)まで詰場明け下宿(げしゅく)(宿下がり)いたし候」。原小隼人は夜中の九ッ半(午前一時)ころに、三奉行・宗旨改・吟味役・普請奉行・道橋役・勘定吟味役・目付を自宅へ集め、善後策を練るためにかれらに意見を求めた。役人たちはみずからの意見を口上書に認(したた)め、七ッ(午前四時)ころ帰宅した。そして、二月二日、足軽騒動の責任追及がはじまり、小頭七五人は山岸文太夫以下二〇人の役人たちに預けられた。さらに、これまで小頭の配下にいる同心(足軽)を普請奉行が支配してきたが、これ以降は小頭を預かった役人たちがそれぞれ同心も支配することを命じられた。五月十八日、原小隼人は樋口孫左衛門に御門番足軽の支配をするように命じた。七月十三日には、四月・五月の給料を支払うので、小頭は足軽どもの印判をそろえ給料の受けとりを確認するようにと命じた。
この混乱の責任をとる形で原八郎五郎(八月十三日に小隼人を改名)は十一月二十九日に勝手御用を解任された。
足軽騒動以後、足軽への支配強化をはかり、給料もできるだけ払おうとした。しかし、給料を支払うといっても借財に頼るほかなかった。寛延三年に江戸屋敷で仕事をしている武士たちへの給料支払いのために、小諸荒町(小諸市)の祖助をとおして江戸の川嶋屋茂兵衛から二五八四両の借金をした。この二五八四両もなかなか返済できず、宝暦十年(一七六〇)、祖助から何度も催促されようやく完済している(『御郡方日記』『松代真田家文書』国立史料館蔵)。
給料の未払いをめぐっての足軽とのトラブルは、寛延三年以後もたびたび起こったらしい。宝暦六年にはつぎのような触れが出された(『監察日記書抜』)。
足軽たちに願い事があるときは、部屋頭が割番所小頭に申し出、小頭から御普請奉行に願いでるのが御定法である。しかし、足軽たちは近年江戸詰め中に、給料の受けとりに関する願いのために大勢で割番所へ罷(まか)りでて、高声で要求することが頻繁(ひんぱん)にある。そのうえ、御普請奉行役所まで罷りでることもあり不埒(ふらち)の至りである。近年の足軽たちの心得はよろしくない。これまでは御譜代の者でもあるので、とりたてて処分しなかったが、なかなか心得違いを気づかない者も多い。したがって、このたび改めて申し渡すことにした。今後願い事がある場合は定法のとおり、部屋頭が割番所へ願いでること。もし、部屋頭だけでは心配なときは三人から五人が付きそっても構わないがそれをこえてはならない。もちろん小頭は願いの筋を急いで御普請奉行へ届けなければならない。したがって、今後大勢で集まり、ほしいままに行動した場合、詮議(せんぎ)のうえ、当人と親子兄弟は申すにおよばず、小頭・部屋頭・同部屋の者までかならず処罰することにする。そのことを理解し、部屋頭、同部屋の者が意見を加えてもしたがわなければ、御普請奉行までひそかに申し伝えること。