田村半右衛門の諸政策

697 ~ 700

戌(いぬ)の満水以降の藩政の混乱は、家臣団内部の分裂を引き起こした。財政窮乏は家臣団への給料未払いとなり、とくに下級武士は藩政への不信感を高め、それは足軽のストライキという形になってあらわれた。そのなかで、藩主信安の信任をうけて藩政にあたっていた原八郎五郎は失脚する。そして、相前後して田村半右衛門という浪人が信安の信任をうけるようになり、藩政を担当することになった。

 田村が松代藩に召し抱えられ、藩政を任せられるのは寛延三年(一七五〇)十月二十二日のことである。田村は強引なやり方で、家臣団と百姓たちに新たな負担を強いることで財政窮乏に対応しようとした。しかし、双方から反発をうけて短時日に失脚する。

 「田村騒動記」(『県史』⑦一七九五)によると、田村は就任すると、家臣団の四分の一は役に立たないから整理するとし、郡奉行(三人)にたいして才覚金一〇〇両ずつ、同じく代官(一〇人)に五〇両ずつ、手代(二〇人)に一二両ずつ、割役元へ四両二分ずつ、勘定方へ四〇両の才覚金を命じた。『家老日記』(『松代真田家文書』国立史料館蔵)の十二月十五日には、これに関連する記事が記されている。この日、田村は郡奉行と代官にたいして、先に命じた才覚金がいまだに調達できないのをとがめて督促(とくそく)している。さらに、年末の資金が足りないとして、原八郎五郎のグループである依田佐十郎・片岡文蔵・渡辺清右衛門に一〇〇両の才覚金を命じている。また、矢代村(千曲市)の久助をはじめ、領内の豪農一一人に一人一〇〇両の才覚金を命じている。田村が諸役人に才覚金を命じた根拠は、かれらが百姓から賄賂(わいろ)を得ているということにあった。諸役人は秋に諸作検分として村々に出向き、そのときのもてなしや賄賂の多寡(たか)によって年貢の減免を決めている、という認識であった。役人にたいする百姓からの賄賂は宝暦改革でも問題にされており、改善されなければならない問題であったが、田村は農政にかかわる諸役人から才覚金を徴収するという方法で手っとり早く解決しようとした。片岡文蔵たちや矢代村久助たちに課した才覚金は、最終的に徴収できたか分からないが、かれらは才覚金を工面できないと再三訴えている。

 百姓たちからの年貢増徴も、直接村々から収奪を強める方法でなされた。その具体的内容を山中の村々が騒動のなかで藩に提出した願い(『県史』⑦二三五)からみてみることにする。

①前々から御情けによって御百姓を勤めてきたが、今般、田村半右衛門様が御出(おいで)になり、御新法を仰せつけられたので百姓は成り立っていくことができない。ぜひ新法を撤回していただきたい。

②午(うま)(寛延三年)の先納金と高懸金(たかがかりきん)を巳(み)(寛延二年)の暮(くれ)から午の十月まで上納したが、今年(寛延四年)も差し次ぎ(差し引き勘定)が認められず、大小御百姓は迷惑している。

③当(寛延四年)春中、夫給金(ぶきゅうきん)を一〇〇石につき金三分ずつ命じられ、三、四年分ほど上納したが、これまた先例のないことで迷惑している。

④当年は御検分もなく、御物成(おものなり)(年貢)の一割五分増しを命じられた。

⑤山中は先年より金納の場所であったが、現物納を命じられた。そのために、大勢の役人方が催促にやってくるようになり、これまた難渋至極である。

⑥これまでの借金は返済しなくてもよいと命じられたので、そのことが他領にまで聞こえ、借用がいっさいできなくなった。そのために、村々の御百姓は年貢を上納できなくなり迷惑している。

⑦田村様は博打(ばくち)など諸悪事を指南してくれるというが納得いかない。

⑧これまでどおり(=古例)の方法で政治をおこなってほしい。

 この願いの構成は、田村の年貢増徴策を新法とし、その新法が百姓の成り立ち、ひいては百姓的世界を危機におとしいれようとしているとし、合意されてきた支配(=古例)への復帰を要求している。願いの②~⑧に年貢増徴策が列挙されているが、松代領のすべての村々にかかわる問題は③④⑥⑦であり、山中村々にかかわるのは②と⑤である。とくに、寛延三年正月から山中村々は成沢新弥が一括(いっかつ)支配しており(「山中分残らず御預けに成られ候」『監察日記書抜』真田宝物館蔵)、おそらく山中村々は寛保元年の改革に近い形で、月割り金納(先納)されたと思われる。しかし、田村が藩政を一任されると、けっきょくその先納した分は寛延三年分の年貢として認められず、さらに寛延四年からは現物納で上納することを命じられた。「田村騒動記」には「山中筋御百姓の麻・長命菜・楮(こうぞ)、この分はこの方(=藩で)他国商人を引き付け売り払い申すべく候」という記述もあり、田村は山中村々の換金作物を藩専売にしようとしていたことが推測される。

 寛延から宝暦にかけてのこの時期は、享保改革いらいの幕府の年貢増徴政策にたいして、全国的に百姓たちは惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)という形で激しく抵抗した。そのために、幕府は村々から直接収奪を強めるという方法では年貢増徴ができなくなり、老中田沼意次(おきつぐ)の新しい政治が登場してくる。田沼は株仲間を結成するなどして、流通ルートを通じて村々に蓄積した富を吸収しようとした。松代藩をふくめた大名・旗本領も例外ではなく、村々から直接収奪を強めようとする年貢増徴にたいして百姓たちは激しく抵抗した。松代藩でも田村半右衛門の政治に百姓たちは田村騒動とよばれる全藩一揆を起こして抵抗した。その結果、田村は江戸に逃げ帰り、かれの政治は頓挫(とんざ)するのである。松代藩も村々から直接収奪を強化するという単純な方法では藩の収入を増やすことが不可能になっており、藩財政を立て直そうとするならば、新たに百姓たちの納得を得られる政治を考えださなければならなかった。