田村騒動は寛延四年(宝暦元年、一七五一)八月二日、田村が領内の百姓代表を集めて以下の三点を命じたことから始まった。①検見(けみ)を願いでない村々の年貢は一律に一割五分増しにする。②これまでの永引きならびに年季引き高を明細に改め、じっさいの起き高を正しく申告すること。③検見を願う村々は、場所・名所(などころ)・附地(つけち)などの帳面を仕立て差しだすこと。つまり、先の願いの④の項目を実行しはじめたのである。これにたいして、八月八日、山中の村々が城下に押し寄せ、八月九日には里方の村々も押し寄せ、田村は失脚するのである。
この騒動のなかで百姓たちは、「万端御百姓行立(ゆきたち)申さざる様に仰せ渡され、これにより田村半右衛門様を今般惣御百姓方へ下し置かれ候様に願い奉り候」という要求を突きつけた。これは身柄(みがら)引き渡し要求といわれるもので、他領他国にも例が多くこの時期の百姓一揆に特徴的な要求である。先にも述べたように、兵農分離という幕藩制国家の原理は、武士や商人を養うのは百姓身分であるという意識を形成した。そして、直接生産にたずさわる者たちがみずからを「御百姓」として統一した要求を武士たちに突きつけるようになった。武士とは違う場所で生活する百姓たちは、武士たちのあずかり知らない百姓的世界があるということを意識し、主張しはじめた。百姓は農業生産者として幕藩制国家を支え、農業生産者として百姓的世界を守ることは当然であり、正当なこととされた。身柄引き渡し要求は、以上のような社会意識に根ざすものであり、背景に持っていることを考えれば、百姓的世界を破壊する者にたいしての制裁行為として位置づけることができるであろう。武士たちも百姓的世界を否定しては武士は存立できないことを認識しており、百姓たちには譲歩せざるをえないのである。百姓的世界を外から守る武士身分は、百姓身分との関係を再構築しなければならない。藩は財政窮乏に対応するいっぽうで、百姓的世界を守ることを政治の課題として前面に掲げなければならなくなった。このような期待をになって実施されるのが恩田木工の宝暦改革であった。