田村騒動が終わり、宝暦二年(一七五二)に藩主信安が亡くなると、一三歳の幸弘(ゆきひろ)が家督を相続した。恩田木工(もく)の宝暦改革はこの六代藩主幸弘のもとで実施される。田村騒動以後、二度の大きな災害がこの地域をおそった。ひとつは宝暦元年の地震であり、幕府から三〇〇〇両拝借した。もうひとつは宝暦七年の大水害であり、幕府から一万両拝借した。この大水害を直接の契機として、同年八月、恩田木工は勝手方家老に就任、さらに十一月朔日、袮津(ねつ)要左衛門と成沢(なるさわ)勘左衛門が勘定吟味役に任じられた。そして、つぎのような触れが職(しょく)奉行、町奉行、郡(こおり)奉行をはじめとして一五の役所に出された。「袮津要左衛門、成沢勘左衛門に御勘定吟味御勝手向懸り合いを仰せつけた。今後、御勝手向きについて恩田木工は存じ寄り(考え)を右両人と相談するので、末々の御役人まで心得ておくように」(『更級埴科地方誌』③上)。この勘定吟味役について、鎌原桐山(かんばらとうざん)は「この役名、昔もありしが中絶せり。ただし昔の勤め方は大様(おおよう)なる事にて、このたびの勤め方の細密なるとは大(おおい)に異なる也」(『朝陽館漫筆』)と記している。それでは、この勘定吟味役はどのような役割を期待されたのだろうか。同日出された触れを要約するとつぎのようになる。
①江戸と松代を交代で勤め、御勝手向きの儀についてどんなことでも立ち入り、御費(おつい)えがないように心掛けること。そのために、御勘定所・御吟味所・御膳所・御次向(おつぎむき)・御茶道詰所(おさどうつめしょ)などに随時出向き、気がついたことがあれば意見を述べ、相談すること。その場合、各役所の役人は御郡奉行などの支配下にいるが、自らの配下にいるものと思って、勤め方にたいしても遠慮なく意見すること。
②江戸と松代ともに金銭の出納について掌握すること。
③「御為(おんため)第一と心得」、つまり、私的な利害から離れて藩の利益を最優先してことに当たること。また、よい考えを思いついたとき、納得のいかないことがあったときは、どんなことでも構わないから、恩田木工と相談すること。
つまり、かれらは江戸・松代双方での冗費をなくすために、役所や役人の管理をおこなうということを中心の任務とした。そして、大小を問わず恩田木工と相談をしながら、農政をふくめて財政政策を全藩的に計画し実行する任務をあたえられた。かれらは恩田木工が宝暦十二年に急死すると、勘定吟味役のほかに「村方廻り」「御金方懸り」兼帯を命じられ、政治の混乱を防いでいる。こうして、松代藩宝暦改革は勝手方家老恩田木工と勘定吟味役袮津要左衛門・成沢勘左衛門の三者を核としながら進められていくことになる。
この冗費をなくすということでは、宝暦八年五月、藩は各奉行に実行予算の提出を求め、同六年を基準として支出の削減を命じた。節約分は一一一両三分であった。しかし、かれらのになった改革は単純に藩財政を建て直すというものではなかった。松代藩宝暦改革の中心となる政策は月割り上納制であるといわれる。それは確かなことであるが、重要なのは月割り上納制を中心とした政策によって藩財政を建て直すために、武士と百姓を納得させ大きな求心力をもって実行されたことであろう。藩財政の建て直しをどのような仕組みでおこなうのか、という点については寛保の改革の月割り上納制と発想に大きなちがいはないと思われるが、全藩あげてそれに取りくむ体制ができたところに宝暦改革の意義があった。『日暮硯』の主題もそこにあった。