それでは、まず財政の建て直しの側面からみていくことにする。先にみたように、寛保の改革では未進金の徴収を凍結し、年貢の年内皆済を優先させた。そうすることで未進金の増大を防ぎ、藩財政を建て直そうとした。しかし、宝暦改革は年貢の年内皆済の実現ばかりでなく、未進金の徴収・処理もあわせて実現しようとした。宝暦七年(一七五七)の『家老日記』に「御郡百姓、享保十五年いらい未進金おびただしくこれあり」とあるように、松代藩では享保十五年(一七三〇)から年貢の未進が増大しはじめた。表9(A)(B)、表10は享保十五年から宝暦六年までの未進状況をあらわしている。総額約二万六〇〇〇両、年貢の未進率からみれば圧倒的に山中村々のほうが高い。
宝暦改革までは未進金の増大になかなか対応できなかったが、宝暦八年には寛延三年(一七五〇)から宝暦六年(一七五六)までの未進金の返済計画をたてた。恩田木工は各支配代官ごとに、「御本納御未進」「御越石(こしこく)御未進」「御飯米代御未進」の三種類に分けて計上させ、その合計から「前々潰れ無躰分御未進」を差し引いた残金を上納すべき未進金としたうえで、それを年賦上納することを命じたのである。年賦は最低で三年賦、最高で三〇年賦であった。表11はその一例である。そして、未進金の上納は表12のように予算化された。なお、この上納は月割り上納ではなく、その年の十一月に一括納入することになった。
この未進金の上納は厳格に実施された。それは明和元年(一七六四)に藩の役人が「金千六両一分八匁(もんめ)四分(ふん)七リン、銭百三十三貫六百六十二文(表12の宝暦九~同十三年までの合計)、これは宝暦九卯(う)年より同十三未(ひつじ)年まで上納相済み候」と述べていることからも察することができよう。そして、宝暦十三年五月には、享保十五年から宝暦十年までの決算書が年ごとに作成された。これが松代藩の財政基本史料として残存している『川中嶋拾万石御物成并(ならびに)御小役勘定相極(あいきわめ)目録』である。このなかで各年ごとの未進金は記載され皆済されている。その例を宝暦元年で示すとつぎのようになる。
金一五八両一分、銀一四匁七分二厘
これは御未進金、宝暦八寅(とら)年村々年賦上納仰せ付けられ、水井久大夫方へ相渡し候、
御代官巻部御勘定皆済仕り候、
金四六三両三分、銀一三匁七厘
同文省略
ところで、この決算書の成立に関して疑問がないわけではない。たとえば、宝暦八年に年賦上納を命じたのは寛延三年から宝暦六年までの未進金であり、その他の部分、つまり享保十五年から寛延二年までの分、および宝暦七年の分は明和元年(一七六四)にはじめて年賦上納が命じられるのである。それにもかかわらず、なぜ享保十五年から各年ごとに決算書ができたのであろうか。けれども、たとえ帳簿上であっても宝暦十三年の段階で懸案の未進金処理の問題は解決したのである。
宝暦改革は、月割り上納制によって年貢の年内皆済を実現しようとするいっぽうで、未進金を年賦償還に切りかえることで財政上の混乱を整理しようとしたが、そのときに大きな役割を果たしたのが幕府からの拝借金であった。年貢の年内皆済と未進金の年賦償還といっても、各村が多くの借金を抱えていればその返済にあてなければならず、藩が企図した年貢の年内皆済と未進金の年賦償還は滞ってしまうだろう。藩は宝暦七年の洪水にたいする幕府からの拝借金を利用して、各村の借財を清算させ、各村の貸借関係を藩に一元化しようとした。
「御郡方日記」(『松代真田家文書』国立史料館蔵)によれば、宝暦八年二月二日に幕府からの拝借金一万両が到来する。拝借金のうち、一三九七両三分は水損にたいする御手充(おてあて)という名目で、無利子で各支配代官から村ごとに貸しだされた。これは年々二七九両二分三匁ずつ五年間で返済された。各村の借財を整理し、貸借関係を藩に一元化するために利用されたのは一四一二両であった。この一四一二両も代官から村ごとに貸しだされたが、返済はつぎのようになされた。「金百両拝借仕り候分は御礼金(利子)相添え金百八拾両に仕り、六ヶ年賦に割り合い、壱ヶ年金三拾両つつ、当寅(とうとら)の暮れより午(うま)の暮れまできっと上納仕らすべく候」。すなわち、一〇〇両を借金した村は、利子六〇両をつけた一八〇両を年々三〇両ずつ六年間で返済することになった。