月割り上納制の成立過程

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宝暦八年(一七五八)三月、いわゆる月割り上納令が出された(『市誌』⑬二六)。この法令によって松代藩の年貢上納方法が確立し、藩は年貢の年内皆済をめざした。まず、この法令の特徴を整理しておく。

①必要現物(江戸御飯米、在所御飯米、切米・扶持方米など)のみを現物納とし、その他は月割り金納にすること。

②小役もじっさいに使用する薪(たきぎ)・藁(わら)などだけが現物納で、それ以外は月割り金納になった。また、多くの小役が廃止された。

③月割り上納金は月々定められた日に、村役人が松代の役所へ持参すること。宝暦八年には里郷が各月の五日・二十日、山中が八日・十九日(のちに二十五日)であった。

④月割り上納相場は、月々納めた分を十月の御買次御立値段(おかいつぎおたてねだん)(籾(もみ)の公定換金相場)で差し引き勘定すること。

⑤御飯米などの納め方を簡素化すること。

 この月割り上納令と寛保元年(一七四一)の月割り上納令の大きなちがいは、十月に定まる御買次御立値段で差し引き勘定するという点にあった。さらに、宝暦九年の二月に月割り段相場が登場する。月割り段相場とは「四月より閏(うるう)七月までの上納分は、当十月の御買次御立値段に二俵安(のちには三俵安)、八月・九月上納分は一俵安の積もりになしくだされ候」(「御郡方日記」)とあるように、早く納めた分は割安になるというものであった。藩は宝暦十年にはこの相場を御情け値段とよんだ。田村騒動という惣百姓一揆のあとに実施された宝暦改革は、百姓たちの動向に気を配った政策を実行せざるをえなかった。月割りで分割して金納するという方法は、麻や煙草などの換金作物を栽培している山中村々には有利な年貢上納方法であったが、逆に月割り金納では不利な村には米での現物納を認めている。たとえば大岡村(大岡村)の宮平組などは山中の村であっても田方が多く、月割り上納金を米の収穫をあてにして上納していた。しかし、暮れに新町村(信州新町)で売り払っても一番安いときなので迷惑しているとし、米での現物納が許可されているのである。江戸での生活を強いられる藩にとって、月々恒常的に貨幣収入があることは好ましいことであった。じっさい月割り上納令が出される直前に、「今年は月々計画的に江戸御入用金を差しだすように」という指示が出された。藩が江戸での消費生活に対応するのに月割り上納制は有効な方法であった。しかし、月割り上納令は三年間の時限立法になっており、その後も、年限切れのつど百姓たちの意向を確認しながら新たな年限を決めて実施しているのは、大岡村のような村が少なからず存在したからであろう。藩財政の健全化をはかるのはもちろんであるが、百姓的世界を守ることを前面に押しださなければならなかったのである。

 つぎに、月割り上納金がどのように納入されたのかをみていくことにする。宝暦八年三月八日、月割り上納金の扱いについて、役人がわの手続きをつぎのように定めた。①月割り金上納のさいにはかならず勘定吟味役(袮津要左衛門、成沢勘左衛門)・目付が立ちあうこと。②月割り上納金はその日のうちに郡奉行より納戸(なんど)へ上納すべきこと。③上納金の差し出しには勘定吟味役・目付が連名すること。④上納のあった日のうちに、「誰(代官名)支配の何村上納金」と明記し、勘定吟味役・目付より恩田木工(もく)へ届けること。⑤勘定所へは朝四ッ(午前九時ころ)に出役し、暮れ七ッ(午後四時ころ)に仕事を終えること。このように、月割り上納金は御勘定吟味役・御目付と恩田木工のルートによって完全に掌握されていた。

 三月八日にはまた、現物年貢を納めにきた百姓へ役人がどのように対応すべきかが命じられた。百姓が納め物を持参したときは、待たせることなくさっそく受けとり、決して手間取らせないようにすること。そのために、御賄役(おまかないやく)の小山忠助は、上郷(かみごう)辺の百姓が御飯米を持参したときの対応をきびしく注意された。二月二十九日に上郷辺の百姓が御飯米を持参したとき、小山忠助は、「今忙しいので追って持参すべし」と挨拶し御飯米を持ち帰らせた。この対応を「百姓の難儀をも弁(わきま)えざる勤め」と訓戒されたのである。

 宝暦八年四月五日には、村方にたいしつぎのようなお触れが出された。「月割り上納金を持参するときは、三役人で申し合わせ、一ヵ村で一人ずつ罷(まか)りでて上納を済ませるべきこと。二人、三人で罷りでることは農業にたいして差し障りがあるから、特別の場合を除いて必要はない。もっとも、上納の節は往来ともに差し急ぎ、松代に止宿することがないように心掛けること」。なお、上納日には、道々に足軽を配置して盗難警備にあたらせている。