恩田木工の改革は、百姓たちを年貢の上納に専念させるためにかれらを納得させなければならなかった。そのために年貢納入の簡略化、合理化とともに、為政者として武士たちの倫理性を高めなければならなかった。菊地南陽などの学者を招いて儒学を家臣に奨励したのもそのためである。また、賄賂(わいろ)を禁止し、「嘘(うそ)を言わない」を改革のスローガンにした。じっさい、額の多少にかかわらず、賄賂はきびしく処罰された。
たとえば、宝暦十二年(一七六二)、福島(ふくじま)新田村(朝陽北屋島)の利右衛門は土用の見舞いとして麦粉一袋を袮津要左衛門のところに持参した件で処罰されている。利右衛門は福島村(須坂市)の小百姓であったが、以前は福島新田村に住み、土地ももっていた。しかし、その土地が川欠けになってしまったので、それ以来、福島村の住人になった。それが福島新田に砂溜まりができ、村から検地願いが出されると、利右衛門は恩田木工に願書を差しだし、土地の復活を申請していた。宝暦八年十一月のことであった。以上のような経緯(けいい)があって、利右衛門の母親は土用の挨拶として麦粉一袋をもたせたのである。その結果、利右衛門は改革の理念を理解していないと処罰された。持参先が改革政治の中心にいた袮津要左衛門であったことにもよるであろうが、改革政治の緊張感が伝わってくる。
逆に、月割り上納を決められた日時に完済できなかった村々もきびしく処罰された。宝暦八年六月二十一日には、上野(うわの)村(若槻)など一一ヵ村が上納日に遅参したうえ皆済できず、翌日になってようやく皆済した。わずか一日の遅れであるが、これにたいして藩はきびしく対応し、一一ヵ村の村役人は所預けを命じられた。
宝暦八年は未進金の上納も年貢の年内皆済もうまく進んだようだ。「御郡方日記」にも「去年中、月割り上納仰せつけられ候ところ、はじめての儀滞りもこれなく出精候事と相聞こえ候」と記されている。宝暦九年二月には改めて月割り上納の心構えが百姓たちに示された。「村方によっては御勘定所へ上納日に刻限に間に合わず罷(まか)りこし、そのうえ、不足金があるなどの不都合のある村方もあったという。かねて仰せつけたことを忘却し、心掛け油断のために起こった事態だといえる。今年は右のような村方も一郷で和談し、もし行きとどかない者がいれば援助し、月割り上納が皆済できるように油断なく出精しなければならない。またもし、小百姓などが我が儘を申し立てたり、上納金をもってくるのが遅くなったり滞ったりする者があったならば、早速一人ひとりの名前を書きつけ訴えでるべきこと」。
こうして、村役人は小百姓の不満をおさえ、村中をまとめあげて月割り上納を滞りなくおこない、年貢の皆済をすることが重要な任務とされていく。簡単には年貢未進ができない雰囲気がつくりだされていくのである。そのために、村役人と小百姓の年貢上納をめぐる対立はより激しくなった。宝暦十二年、山中の伊折(いおり)村(中条村)で組分け願いが出された。甚兵衛をはじめとした四人は、いつも月割り上納金が不足したり滞納したりするので、かれら四人を別にしてくれたならば「御月割りは申し上げるにはおよばず、諸上納・夫銀(ぶぎん)などまで滞りなくきっと上納仕るべく候」という要望であった。また、明和元年(一七六四)には、羽尾村(千曲市)の小百姓二六人が月割り上納に行き詰まり、代官所まで願いだし、さらに袮津要左衛門のところまで願いでた。これにたいし、藩は「近年別して小百姓御憐愍(ごれんびん)のところ、かえって御厚恩忘却仕り、折りおり強訴(ごうそ)の趣も相見え、このたびの儀御沙汰(さた)におよばず候わば、いよいよこの末、右躰(みぎてい)の願いも多くなり、月割り上納金滞りの基(もとい)にも罷りなるべく存じたてまつり候」という認識を示し、以後、このような事態にはきびしく対応していくことになった。
村をまとめあげ、月割り上納が滞りなく運用されるためには、村役人の強い指導力が必要になった。そして、強い指導力を発揮するために肝煎(きもいり)を名主と改め、名主に高い権威を付与しようとしたのである。宝暦十四年(明和元年、一七六四)四月、川北通り四六ヵ村から、松代藩では肝煎とよんでいるが、周辺の御料(ごりょう)(幕府領)・私領(しりょう)では名主とよんでいる。そのために、他領と応対するときは「未熟の躰(てい)」で迷惑している、という願いが出された。さらに、五月には川北通り四六ヵ村から少しでかまわないから名主役料を藩から頂戴したいという願いが出される。「他所への外聞がよろしい」のに加え、内々で役料を支払うよりも「小百姓にたいしあとあとまで明白の筋に罷りなる」というのが村がわの理由である。そして、これまで村々で独自に肝煎給として徴収していたものを、そのまま夫給金に組みいれて月割り上納するとした。換算(かんざん)は一俵=金一分、つまり一〇両=四〇俵とした。六月には村高によって名主給として支払われる籾俵(もみたわら)が表13のように決まった。さらに、七月は川北通り総代から名主が脇差(わきざし)をさすことを許可してほしいという願いが出されたが、この願いは却下された。