難渋村御手入れ

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松代藩の政策に「難渋村御手入(なんじゅうむらおてい)れ」とよばれる政策がある。この政策は潰れ百姓などの多い難渋村を通常の代官支配から切り離し、勘定役懸りあい村とし、特定の勘定役が張りついて難渋村の復興をおこない、再建されるともとの代官支配に戻すという政策であった。この政策がいつごろ始まったのか確定はできないが、宝暦八年(一七五八)の「勘定目録」(『市誌』⑬二八)には、代官とは別に、佐藤軍治懸りあい御勘定、水井久太夫懸りあい御勘定というように勘定役への年貢上納籾も記載されている。御蔵納八万六五三五俵のうち、かれらのところに上納された年貢量は約九五〇〇俵であり、一割強が勘定役のかかわった難渋村からの年貢であった。このことから、「難渋村御手入れ」は宝暦期(一七五一~六四)には一般的におこなわれていたことが知られる。

 明和元年(宝暦十四年、一七六四)の大岡村(大岡村)の復興策では、「宮沢嘉平ならびに手代松本金右衛門、村々手を入れ詮議(せんぎ)を遂げ、勘定差し引きなどわけて心懸け吟味を遂げ候様仰せ付けられ候あいだ、支配御代官はもちろん、右両人に万端指図を受くべく候」(「御郡方日記」『松代真田家文書』国立史料館蔵)という触れが出された。大岡村の再建は代官と勘定役との協力によってなされた。また、このときの再建策はつぎの四点であった。①これまで寛文(かんぶん)六年(一六六六)の水帳で年貢を収納してきたが、実態にあわないため、検地を実施し、人別と持ち地との関係を明確にする。②田方が多いので月割り金納ではなく、三ヵ年に限って籾納にする。③三ヵ年のあいだ、出人足を免除するから、その分荒れ地の開発に専念すること。④大岡村は多くの小村から成り立っており、これまでは宮平(みやだいら)組・和平(わだいら)組・根越(ねごし)組・川口組と小村を四つの組に分け、各組がまとめて年貢を上納していたが、以後は各小村ごとに上納することにする。

 しかし、宝暦改革以降、難渋村の再建策として拝借金の利下げや無利子化、さらには長年賦(ながねんぷ)返済といった方法が目立つようになる。このような政策が可能になったのは、恩田木工の宝暦改革が大きな影響をあたえていることは間違いない。このときに藩は未進金を長年賦返済に切りかえるいっぽうで、各村が抱える貸借関係を藩が拝借金を貸しあたえることで藩に一元化しようとした。その後、百姓が返済不能な借財をしないように、村役人が百姓の借財に関与し、抵当のない借財には加判をしないように命じた(災害史料①)。また、借金加判元帳をつくり、百姓の借財の管理を強めることを指示するのである(災害史料②)。

 しかし、小百姓が潰れるおもな原因は藩からの拝借金であることは明らかである。天明三年(一七八三)四月、東和田村(古牧)で二人の欠落人(かけおちにん)が出て、かれらの借金を村中で弁納することになった。平左衛門は持ち高二五石であるが、拝借金一八三両、品々上納物滞(とどこお)り九両、他借金一〇両であった。持ち高五斗の孝助は、拝借金三両、品々上納滞り一四匁、他借金四両である(災害史料③)。宝暦改革以降、年貢上納に行きづまると藩が拝借金を貸しあたえることで年貢の年内皆済を実現するという政策を意識的におこなってきたのであるから、拝借金の比重が高くなるのは当然の結果であろう。むしろ、拝借金という形で村の借財の多くが存在しているからこそ、拝借金の返済の緩和ということが難渋村を復興させる政策の中心になるのである。逆のいい方をすれば、百姓たちを金融的にしばりつけることで、潰(つぶ)れ百姓の増加という代償を払いつつも、藩はしぼりとれるだけの利益を得ていることになる。

 しかし、百姓の生活が向上しなければ利子という形でどんなにしぼりあげても限界がくるのは当然であろう。文化十二年(一八一五)、拝借金の財源そのものが枯渇(こかつ)してしまうというのはそのことの反映である(古川貞雄「松代藩における非常出費時の御用金・借入金政策」)。藩はそのころから殖産興業政策に本格的に取りくむようになる。