天明四年(一七八四)になると飢饉は小康状態になるが、十一月に山中村々の小百姓を中心とした騒動が起きる。この騒動については「騒動記」(『県史』⑦一八〇四)が残っているが、藩の日記と照らしあわせるといくつか事実の食いちがうところがある。ここでは、藩がわの史料である「御勘定所元〆(もとじめ)日記」と「御在所日記」(ともに『松代真田家文書』国立史料館蔵)を中心に考えてみたい。
まず、この騒動は前項で触れた山中二五パーセント、里郷一五パーセントの延納分を藩が強引に皆済させようとしたことからはじまったとされる。しかし、じっさいには藩は皆済を命じているわけではない。十月十九日に藩はつぎのように指示している。
去年は凶作であったので、御収納のうち山方で二分五厘、里方で一分五厘を御手充(おてあて)として延納を認めた。ほんらいであれば皆済を命じるべきであるが、今年も畑方に限っては夏・秋両毛とも不作であったので、重々御手充として一〇両の金高では二両、一〇俵の籾高では二俵、つまり延納分の二割の上納を命じることにする。ただし、田方は豊作であり、そのうえ里郷は籾で上納するのであるから、田方の多い村方はいうまでもなく、田方の少ない村でも個人で延納分を返上できる者はとにかく皆済できるように努力出精すべきである。
以上のように、藩は皆済を命じたわけではなく、延納分の五分の一の上納を命じたにすぎない。しかし、問題になっている延納分について、藩内では「年貢皆済運動」と表現してもよいような雰囲気ができあがっており、天明三年でまったく皆済できなかった村は全体の三七パーセントにすぎなかった。そのような現状で、藩が稲は豊作であるという事実に触れ、皆済の努力をしろと命じることは、小百姓たちに「年貢皆済」の無言の圧力をかけることになったであろう。ましてや、宝暦改革以降の村々では、皆済しないことは百姓の「第一の主役」を果たしていないことになるという雰囲気が支配的であることを考えれば、努力しても年貢を皆済できない小百姓への圧力は相当なものであっただろう。
すでに天明四年(一七八四)の正月、「山中通りで心得違いの者がいて、新町村(信州新町)酒屋へ金子(きんす)の無心に出かけようと企んでいる者がいる」ということを内々に藩に訴えるということがあった。訴えたのは広瀬村(芋井)の源治という人物であった。十一月に入ると念仏寺村・久木村・伊折村・長井村(中条村)が中心になり、年貢皆済のための金子借用に領内の酒屋へ大勢で押しかけることになった。「騒動記」では鬼無里・日影両村(鬼無里村)を除いた山中一統の行動になったと記されているが、すでに多くの村が皆済しており、ひとつの村のなかでも個人的に皆済している者がいるなかでは、惣百姓一統の行動となったとは思えない。藩もこの騒動を「山中村々のうち小前の者ども」の行動と理解している。かれらは中条村酒屋要左衛門を皮切りに、新町村、里穂苅村(信州新町)、赤田村(信更町)、布施五明村(篠ノ井)などの酒屋とつぎつぎに交渉し金子借用を約束させた。そして、二ッ柳村(篠ノ井)幸右衛門のところには藩の勘定方役人が待機しており、かれらは勘定方の役人と交渉した。ここで、山中の百姓たちは拝借金の延納、夫食(ふじき)(食糧)のない百姓への御手充などを藩に約束させ、とりあえず騒動はおさまった。
この「山中騒動記」は後年の文政期(一八一八~三〇)に書かれたものであり、どこまでが確かな事実なのか確定することは今後の課題になるであろう。しかし、酒造業を奨励することが米価をつりあげることになり、その結果、金納相場が藩に有利に決定される。拝借金として難渋百姓がお金を借りても、それを返済しきれず、けっきょくは利子が重なって大きな負担になる、というように、小商品生産の展開を前提にした当時の政策の問題点を正しく認識している。むしろ、このようなリアルな政治批判が存在していることが重要であり、これ以降の藩政は恩田木工の「嘘を言わない」という為政者の心構えを強調する方法では百姓たちを藩政に協力させることはできなくなっていくであろう。みずから所属している藩の歴史と意義を強調する真田幸貫(ゆきつら)の藩国家意識高揚策が登場してくる背景には、以上のような百姓の成長があった。