真田幸貫が八代藩主となった文政六年(一八二三)段階の藩財政はまったく行き詰まりの状態にあり、入部直後にもっとも重要視した「大鋒院(だいほういん)様(真田信之)御木像白鳥山(しろとりさん)へ御遷座」を実施するための費用すら捻出することができないほどに深刻な財政状態であった。この年の借金は二万四〇〇〇両をこえ、前年のそれは一万六〇〇〇両余もあったが、他方で前年に家中・町方・在方などに貸しだされた金額は四万四八〇〇両余におよんでいる(吉永昭「紬市の構造と産物会所の機能」)。
このように藩財政は借金をするいっぽうで貸し付けをおこない、そのなかには借り入れ金も投入されているという複雑な構造になっていたが、財政再建の鍵は、基本となる年貢収入を増加させることもさることながら、諸貸付金からの収益を増大させることに絞られていた。
その貸付金政策は、家臣団や百姓救済、あるいは領内の産業育成策や流通政策と連動して紆余曲折(うよきょくせつ)をへながら展開していったが、結論を先にいえば、幸貫入部(にゅうぶ)のころには貸付金政策の転換期にあって、糸会所や産物会所の設置はその一つであった。そのため糸会所や産物会所設置にいたる前提として、まず藩の貸付金政策を概観しておこう。