藩の貸付金にはさまざまな種類があったが複雑で、いまのところその全貌(ぜんぼう)を明らかにすることはできない。そのなかでは少し性格がわかる御繰り廻し金について概要を紹介するが、それの起源や性格もよくわからない。
勘定所詰(づめ)のうち、無尽世話かつ繰り廻し金勝手向きなど世話致し候面々(中略)、右など相頼み候人は、御勘定役などは平日金銀差し引きこと馴れ、その上村方の善悪もよく存知これあるを頼みにいたし、身上(しんしょう)をも任せ置き、或いは追年取り続きのため、または普請引きあて、子ども縁付け入料などの心当たりにて頼み置き候事と存ぜられ候(「文政二年 御郡方日記」『松代真田家文書』国立史料館蔵)、
文政二年(一八一九)のこの史料からうかがえることは、繰り廻し金には生活や普請のための貯蓄、子どもの結婚費用のための資金などの利殖を目的として、勘定役などに運用をゆだねた金であって、依頼者は家臣が多かったようであるが、当座は使わない藩庫の金や藩主から依頼された金もあった。このほかに他所から借りた資金の一部も繰り廻し金として運用された。こうしたさまざまな種類の資金が藩からの貸し下げという形をとったところから、すべて「御繰り廻し金」と称されたようであるが、それを取り扱う機構は当初は整っていなかった。
そのこともあって御繰り廻し金の全体像を明らかにすることが困難なのであるが、勘定方がおこなったひとつの御繰り廻し金を示せば表15のようになる。この御繰り廻し金が享和三年(一八〇三)の一〇〇〇両弱から、その後急に三~四〇〇〇両台に増えていることから推測すれば、この御繰り廻し金がはじまったのは一八世紀後半ではないかと推測される。またこの表から文政六年(一八二三)に御繰り廻し金が大幅に減額していることが注目される。
御繰り廻し金の貸し付け先をみると、表16のように、享和三年は総額の半分以上が、文化十一年(一八一四)、文政六年には九割以上が村方に貸しつけられている。村方への貸し付けは災害などによる村方の難渋を救うための「御手入れ」的なものが大きいが、個人経営への貸し付けや、その村の給人(きゅうにん)(藩士)のための「村借り」もふくまれている。また武士への貸し付けは享和三年にくらべて文化・文政には金額も率も減少している。
御繰り廻し金の藩士以外の個人・村方への貸し付け地域を図4でみると、享和三年では村方・個人ともに一ヵ所への貸し付け額は二〇両以内で、千曲川・犀川沿いのかなり広範な地域にわたっている。それが文化十一年になると、一村へ一〇〇両以上と貸し付け額が大きくなるとともに、善光寺町・松代町・新町村(信州新町)などの周辺や、裾花(すそばな)川と土尻(どじり)川にはさまれた山村などに集中する傾向をみせる。文政六年になるとその傾向はいっそう顕著となり、裾花川と犀川の合流点に位置する大塚村(更北青木島町)に二〇〇〇両、新町村に三〇〇両弱、裾花川上流の鬼無里村周辺に一〇〇両余と、貸し付け先が特定地域に集中している。これらの地域はおおむね天保二年(一八三一)に木綿師が多い地域であって、後述する養蚕業が展開していた上郷(かみごう)地域への貸し付けはほとんどない。文政六年の大塚村の二〇〇〇両の内容は不明であるが、「大塚村請(うけ)」とあることから、この村の給人のための借金ではないかと思われる。また新町村や鬼無里村周辺は当時代官をとおして村方救済がおこなわれていたので、この御繰り廻し金もそうした救済に使われたものと考えられる。
このようにこの御繰り廻し金は、時代がくだるとともに村方や藩士の救済資金としての色彩を強めたためか、「近年頻(しきり)に不差引(ふさしひき)の取沙汰(とりざた)これあり候」と運用が円滑にいかなくなり、文化十一年以降貸し付け額が減少し、とくに文政六年には激減した。その理由として「近年在方難渋村多く、滞(とどこお)り金これあるゆえの儀もこれあり候」と難渋村の増加が指摘されている。
この御繰り廻し金とは別に八田家も、藩主や若殿様の手持ち金や足軽献金などを御繰り廻し金として運用することをゆだねられていた。八田嘉右衛門は文政十年に藩に差しだした上書のなかで、文化末から文政期にかけての御繰り廻し金の貸し付け状況についてつぎのように述べている(「御用日記」『松代八田家文書』国立史料館蔵)。
御繰り廻し金御預り金の儀、これまで度々(どど)仰せ渡され畏(かしこ)まりたてまつり取り計らい候処、近年一統返済方不埒(ふらち)の風儀に罷(まか)りなり、町方・在方へ左なくと貸し出し相成り難(がた)く、商い方仕入れ金貸し渡しの儀も御当地手広に取り捌(さば)き候者は御座なく候えば、繰合方(くりあわせかた)差し支え候処、先年産物類御取り立ての砌(みぎり)、仰せふくめられるにつき御預り金を以て、召仕の者へ申しふくめ取り計らわせ候、
これによれば、八田家ではこれまで御繰り廻し金をたびたび依頼されたが、最近では返済が滞りがちである。そうでなくても町・在ともに貸し出しはむずかしく、商売用の仕入れ金の貸し出しも領内には手広に商いをしている者がいないので、先年(文化十三年)産物会所が設置されて産物類が取りたてられたさいに、使用人に預り金の御繰り廻し金で取り計らわせた、という。しかし、これは大損を招いて失敗しているのであって、文政三年(一八二〇)に藩財政建て直しについて意見を求められたさいに、利潤も出ないような御繰り廻し金は見合わせたほうがよいと反対意見を述べている。
このように少なくとも二種類の御繰り廻し金は、文化末から文政初めにかけて運用が行きづまっていた。そのため藩は文政五年に、従来からおこなわれてきた御繰り廻し金の貸し付け方法を全面的に再検討して、元利ともに確実に回収できる方法を編みだすことにした。その結果、文政八年に、御繰り廻し金を新たに運用する役割ももって糸会所が松代町に開設されたのである。