養蚕業の展開と糸市出入り

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松代領における養蚕業の普及は、寛政年間(一七八九~一八〇一)に藩が物産掛を設けて「勧植桑養蚕書」・「養蚕全書」などを領内に頒布(はんぷ)して奨励したころから本格化したとされる(『埴科郡志』)。文化六年(一八〇九)には、上田領に接する鼠宿(ねずみじゅく)・新地(しんち)両村(坂城町)に二・七日、月六回の糸市が地元の新地村組頭丈右衛門らによって開設されるまでになった。この地域の生糸はそれまで隣領の上田城下町に集められて取り引きされていたので、この松代領の糸市は「上田市場奪い取るべき工(たくら)みを企(くわだて)」るものだとして、上田町問屋太郎兵衛・年寄九左衛門が総代となって、翌七年正月に幕府寺社奉行に糸市反対の訴訟を起こした(『上田市史』上)。両者の主張をみると、まず上田がわの言い分はつぎのようであった。

①上田町は市場交易で生活してきたのに、鼠宿・新地が市を立て、店を出して日用の塩・茶や上田産の絹嶋(縞)(きぬしま)・紬(つむぎ)嶋までも取り引きし遠国の商人までも引きつけている。この地は松代領や北国筋の南への唯一の出口であるから、新市によって上田町は重大な脅威にさらされている。

②鼠宿・新地はかつて寛政十一年(一七九九)に、旅籠屋(はたごや)渡世をはじめたことで坂木宿(坂城町)と争論を起こしている。このとき坂木宿など既存の宿場助成の差し障(さしさわ)りにならぬようにとの御裁許があったはずである。今度の新市は古来からの宿場を潰(つぶ)しかねない。

 これにたいする鼠宿・新地の反論はつぎのようなものであった。

①両村はほんらい九〇〇石余であるが、千曲川の氾濫(はんらん)などによって現在は三〇〇石余の耕地しかなく、それも薄地である。そこで桑畑にして年貢上納の助けにしている。

②三〇年前に二・七日の紬市(つむぎいち)があったがその後さびれた。しかし、近年養蚕に励み「女・子どもには最上の手業(てわざ)につき近辺村々流布(るふ)つかまつり、余程(よほど)糸出来(しゅったい)候えども近在市場も御座なく、上田町へ持ちだし候えば、下直(げじき)(安値)なる値段付け候て甚だ不弁利、是非なく近村申し合わせ上州表(おもて)(群馬県)へ付け送り候えば、遠路出費多分に相掛り引き合」わないので、松代藩の許可を得て、以前のごとく市を立てたのである。

③糸市では上州表から糸買い人がやってきて正路の相場で取り引きしており、しかも他の品物は扱っていない。糸市が立ってから上田町の商人が大勢やってきて商取り引きをしており、上田町に差し障(さしさわ)りになるようなことはない。このたびの訴訟は「これまで捌(さば)き方これなきを見掠(みかす)め下直に相調(あいととの)え高利を貪(むさぼ)り候所、糸市相立ち候ゆえ利分薄きを憎み、自分勝手の欲心より出訴」したものと思われる。

 この訴訟では両村近郷の二八ヵ村の代表も、これまでは「上田町へ持ちだし候えども捌き方これなきを見掠め、いたって下直なる値段付け候て引き合い申さず」、また市場へ持ちだすのは女・子どもで上田までもっていくのは大変であったが、両村に市が立ってからは大変都合がいいので禁止しないでほしいとの嘆願書を提出した(東寺尾『野中家文書』)。

 この訴訟は、「鼠宿・新地の糸市は新規同様の市であり、日を決めて市を立てることは認められないが、糸買い人に掛け合って売り渡すことは認める」、という裁許が出て、両村がわの敗訴に終わった。

 さてこの訴訟から、①図5のような鼠宿・新地をはじめとする二八ヵ村の生糸生産地帯が形成されていたこと、それは「追年繭(まゆ)たくさん出来(しゅったい)候ゆえ下直(げじき)に罷(まか)りなり、格別の利潤も御座なく、糸に取り揚げ候えは余程為に相成り」とあるように、繭販売から生糸生産に向かいつつあったこと、②この市は二八ヵ村の直接生産者の要求によって立てられ、訴訟の前面に立ったのが生糸を買い入れる糸元師(いともとし)ではなく、村役人を中心とする村であったこと、③製糸業が農間(のうかん)余業としておもに婦女子によって営まれ、家計補助的性格が強かったこと、④これらの養蚕業地域は城下町松代とではなく、隣領上田町商人を媒介(ばいかい)にして上州市場などと結びついて形成されてきたものであること、⑤当時はまだ松代領内の糸元師の形成が弱かったこと、などがわかる。


図5 文化7年(1810)糸市出入り村方
  (出典は図4に同じ)