糸市出入り一件が敗訴した後、松代藩は、この市立てに尽力した新地村組頭丈右衛門と松代町最大の特権商人である八田嘉右衛門とを物産掛りの用達(ようたし)として、文化七年(一八一〇)に五日・十五日・二十五日と毎月三回の糸市を松代町に立てることとした(『埴科郡志』)。また文化十三年には産物会所を設置し、おもに生糸の江戸売り込みに力が注がれた。
このころ領内は「御家中・町・町外(ちょうがい)・近在とも自然買い掛け等多くこれあ」る状態で藩が「町方調(ととの)い候物成るべくたけ現金相払」う(「御用日記」『松代八田家文書』国立史料館蔵)ことを奨励するような状況にあって、糸市はかならずしも順調に発展したわけではなかったが、藩のあと押しもあって、糸市で生糸を売りさばく糸元師は文政期(一八一八~三〇)になるとしだいに増加した。文政元年(一八一八)には八一人を数え、翌二年には糸元師仲間を結成し、翌三年からは一人銀六匁の冥加銀(みょうがぎん)を藩に上納するようになっている(吉永昭「製糸業の展開と糸会所の機能」)。そして文政十三年には一二二人を数え、そのうち松代町の糸元師は六九人を占めていた。