ところで先述した御繰り廻し金の貸し付け策はもちろん、生糸などの産物取り立て策も、城下町松代が金融や流通の拠点として発展することを念頭に置いた政策であったが、それほどに松代町の商業や金融活動が不活発だったのであろうか。
そもそも松代城はいくさに際して守りを重視して築かれた城であり、経済的要地に設けられたとはいえなかった。松代町には北国街道川東通りがつらぬいてはいたが、少なくとも一八世紀後半には関東や越後方面との人や諸物資の往来や善光寺平の商品経済の中心は、善光寺町やその周辺にあって、松代町はそれから取り残されていた。
当町の儀は往来旅人なども少なく、近郷の最寄(もよ)り運送など宜(よろ)しからざるゆえ、店(みせ)買いの儀多分に所限(ところかぎ)りの趣これあるべく、惣(そう)じて外々(ほかほか)辺土の場所にては品々(しなじな)(種々の)職人多く、所製の産物これあり、他国まで交易致し候ゆえ、土地は最寄り宜しからず候てもいたって繁栄の場所これあり候、一体当町方は諸職人少なく常用の品他所(よそ)より入り来たり候儀少なからず候あいだ、この上何品によらず当地にて出来(しゅったい)致すべきのもの、その業(わざ)を心掛け習いうけ製作いたし、なお通用相成るべき品々を相考え、なにとぞ外国までもひろく売り捌(さば)きこれあるよう致すべく候(「願書向日記」『松代真田家文書』国立史料館蔵)、
これは文化二年(一八〇五)に松代藩が出した布達の一節であるが、松代町は人の行き来も少なく流通も活発でなく、また店買いも限りがあるという経済が不活発な町である。よそには辺土の地でも所の産物があって他国とも交易して繁栄しているところもあるのに、松代町には諸職人が少なく、日用品も他所から入ってくることが少なくない。この地でできるものはその技術を身につけて製作し、さらに売れそうな品物を考えて外国(信濃国外)までも売りひろめたい、というのである。城下町の繁栄策として国産奨励を進めようとしていることがわかる。
じっさいの松代町の状況を、町検断(まちけんだん)であった伴家(ばんけ)(穀屋)が書きとめた松代町への来訪者からみてみよう。表17は明和五年(一七六八)の来訪者であるが、明和二年から安永二年(一七七三)までのあいだに松代町に領内の産物を買いにきたと思われる商人は、この表の「絹買い」にやってきた上州桐生(群馬県桐生市)の利兵衛ただ一人である。表中の銅山用事というのは赤柴(あかしば)銅山(松代町豊栄)の採掘に関連する者たちであって、このころ集中的に何人もが訪れている。それ以外は他国から品物販売に訪れた者だけであった。この状況は先述した文化二年の松代町の状況から四〇年近くも前のことであるし、また木綿や養蚕は発展途上にあり、またここに掲載されていない来訪者もいたに違いない。しかし、そう考えてもなお、文化初年の松代町の商業活動は不活発であったという先の記述をうなずかせるものといえよう。