松代藩は、領内産の生糸を上田町から城下町松代に集中させるために開設した糸市を背景にして、文政九年(一八二六)に糸会所を設置した。
糸会所の構成員は表18のとおりで、最高幹部ともいうべき取締役(とりしまりやく)と惣元方(そうもとかた)は産物会所をになった八田家とその一族であり、他の役員も松代町の有力商人であった。また、世話人のなかで弥十郎と治助以外の五人は以前からある糸市の世話役を勤めていた現場の商人であった(「御用日記」『松代八田家文書』)。これをみると糸会所は、松代町の商人と糸市の世話人であった者たちによって糸市を支え発展させる組織であったことがわかる。
この糸会所による糸市の繁栄方策について、糸会所設立時に藩から出された触れ書をとおしてみてみよう。長文にわたるが重要部分を掲げる。
一(中略)以来手前挽(ひ)きの糸、市場へ持ち出し、勝手次第に売り捌(さば)き申すべく候、右は手挽きの糸上製に念を入れ、自分売りに致し候えば、価(あたい)も宜(よろ)しく相なり、これまでの挽き賃の助成より挽き子の助徳相増し申すべき趣意を以て申しつけ候、他国・他郷への糸劣り申さざるよう厚く心掛け、成るべきたけ挽き子入念に申すべく候、恐れながら挽き子のうち差し支えこれある向きは借繭(しゃくまゆ)致し、または暫(しばら)くのうちはこれまでのとおり挽き賃致し居り、追々手前挽きへ相移り候よう心懸くべく候、
一毎月三・七の日伊勢町・中町・荒神町糸市において、手挽き致し候者成るべきたけ糸・繭とも売買すべし、(中略)このたび、糸方御取り立てのため糸会所仮り出来(かりでき)、追々融通方かつ取り締まり向きこれある事に候あいだ、右借繭方など万一不埒(ふらち)の者これあり候わば、貸し付け候糸元師より右会所へ申し立つべし、糺(ただ)しの上厳重咎(とが)申し付くべし、なおまた手挽き・手売り弁利方・心得方は会所へ罷り出(まかりい)で承(うけたまわ)るべく候、前断のとおり手挽き・手売り勝手次第と申し渡し候とて、糸元師にもこれなき者右仲間の振りを似寄(によ)せ候て売買方致すまじく候、向後(こうご)繭中(仲)買者へも取り締まりのため鑑札相渡し候あいだ、年々五月朔日(ついたち)までに糸発端世話人のうちを以て右会所へ申し出(い)で、鑑札受け申すべき者也、
右の一条目は、今後は挽き子が自分で挽いた生糸を市場に出して売りさばくことを許可したものである。これにより、手挽き糸の質の向上と価格の上昇によって、従来の糸元師のもとでの挽き賃収入よりも収入が多くなることを期待している。また経営が苦しい挽き子は借繭(しゃくまゆ)するかしばらくはこれまでどおりに賃挽さして、やがては自立するようにとうながしている。
二条目も前条同様に挽き子の市売りを奨励しているもので、手挽きする者は毎月三と七の日に松代町の三ヵ所で開かれる糸市で糸や繭を売買するように。また糸会所を設けて融通を計り、取締りをおこなうので借繭で返済が滞った者がいれば貸しつけた糸元師は会所に申し立てるべし、その挽き子を会所が処罰する。また手挽きや手売りの有利性などは役所で聞くように手挽き・手売りが自由だといっても、糸元師でない者が糸元師の振りをして売買してはいけない。今後は繭仲買人にも鑑札を付与するので、毎年五月一日までに受けとるようにせよと、挽き子・糸元師・繭仲買の区別と統制もおこなうとしている。
こうしてみると糸会所は、藩が挽き子の自立化と糸元師や繭仲買・蚕種商人への鑑札付与による保護や統制によって、生糸を松代糸市へ集中させるという体制を前提にして、それによって糸市に集まった生糸を売りさばくという役割をになうものとして設置されたことがわかる。