しかし、糸会所にはもうひとつの、金融活動という役割があった。糸会所は藩から貸与された資金を利子八分から一割で、糸元師や会所役人に糸・繭を担保に貸しつけたのである。表19は糸会所が貸しだした金額と人数であり、表20はおもな貸し付け先を示したものである。貸し付け金額が年々増加していること、貸付先は文政十一年(一八二八)の場合でいえば、貸し付け総額の約六三パーセントにあたる三二七〇両が松代町の商人六人に貸しつけられており、残りの約三七パーセントは糸元師に、挽き子の面倒をよくみるという条件づきで貸しつけられている。さらに糸会所の貸し付け金にはもうひとつの役割があった。
糸会所において木綿師どもへ糸元師同様の取り計らいを以て、御貸し下げの儀見込み御尋ね成し下され候所、この儀は兼ねて会所詰めの者どもも右の御取り計らいに相成り候わば、一統の融通にも罷(まか)り成り申すべき段申し聞かせ置き候儀、一体木綿の儀は秋季より盛んに相成り候えば、会所の方手明きの時節御貸し下げ金も追々上納つかまつり候分、なおまた右の方へ取り計らいつかまつり候わば、御金の都合も宜しく、その上木綿師手薄の者どもへの御情にも罷りなり申すべく存じ奉り候(「木綿商売人別鑑札相渡取調一件帳」『松代真田家文書』国立史料館蔵)。
これは糸会所の資金を木綿師(糸元師と同様の存在)に貸しつけるか否かについて、糸会所が藩に差しだした答書の一節であり、結論は木綿師への貸し付けは会所にとっても都合がよいというのである。木綿が盛んになる秋には会所が手明きとなり、生糸商人などから返金された分を木綿師に融通すれば、資金の回転もよくなるし木綿師の経営にも役立つ、というのが貸し付け賛成の理由であった。このように糸会所の貸し付け金は、生糸だけではなく木綿をも対象にしており、糸元師や木綿師への活動資金を提供するとともに、その貸し付け金による利殖も目的としていたのである。つまりこの糸会所は、前項で触れている御繰り廻し金の運用をより確実におこなうための機関という性格もあわせもっていたのであった。
以上のような糸会所の貸し付け金とは別に、糸会所の取締役八田嘉右衛門と糸会所のあいだでも資金の貸し借りがあった。八田家の預かり金の一部をみると表21のようであるが、このうち文政四年(一八二一)までは藩から、文政十三年(一八三〇)と天保二年(一八三一)の分は糸会所からの預かり金である。この預かり金は八田家が生糸商売をおこなうためのものではなく、糸元師などに貸し下げられたり、かれ自身の商業経営の資金として使われた。たとえば文政十三年には、十月以降年末までのあいだの店全体の運転資金は一二七一両余であるが、そのうちの六割は糸会所からの預かり金であったし、天保二年の前半期も全体で八八三両余のうちの半分近くを糸会所からの借り入れ金が占めていた。
八田家の商業経営に糸会所からの借り入れ金が導入されたのは、経営拡大のための資金調達ということではなくて、このころ八田家の経営の中心であった酒造業が衰退しつつあり、また文化初年に岩村田藩・飯山藩に貸しつけていた御繰り廻し金も焦げつくなど、不振におちいっていた経営を維持し建てなおすためであった。他方で八田家手持ちの資金が糸会所に融通されて、糸会所の運転資金の一部として運用されることもしばしばあった。
こうした糸会所と八田家とがたがいに資金を融通しあうという相互依存関係は、他の糸会所役員である有力商人についてもあてはまった。しかし、こうした糸会所を通じての松代町の有力商人と藩との共生関係は、八田家が経営不振を藩金に頼り、糸会所も運用資金不足を八田家などに依存するというように、たがいの利益拡大よりは両者の弱点を補完しあうという性格が濃いものであったといえる。