松代藩は六代藩主真田幸弘のあと、七代幸専(ゆきたか)は譜代の名門彦根藩井伊家から養子として迎えられた。また八代幸貫(ゆきつら)は幕府寛政改革の担当者であった白河藩松平定信(さだのぶ)の次男である。これにより、もともと外様大名であった真田家の家格は高まり、幕政への関心とそれへの貢献という意識も高まった。いっぽう、一九世紀になるとロシア船、イギリス船とのトラブルが増え、日本の鎖国体制が揺らぎはじめ、ヨーロッパ諸国の日本にたいする攻撃の可能性が出てくると、日本国内でも防衛問題への関心が急速に高まっていく。
七代幸専は武器の充実をはかり、文化三年(一八〇六)片井喜太郎を鉄砲師として小諸より招いた。そして、翌年から赤芝(あかしば)銅山(松代町豊栄(とよさか))などの開発をおこない、文化六年には片井によって大砲が鋳造され、幸専に献上された。
八代幸貫は養父の路線を継承し、挙藩(きょはん)軍事体制の構築をめざした。幸貫が藩主に就任したのは文政六年(一八二三)八月であり、翌々八年には、異国船が日本の海岸に乗り寄せようとしたならば、理由を聞くことなく打ち払うことを命じた異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)(無二念(むにねん)打払令)が出されている。異国船打払令のなかでも言及されているイギリス捕鯨船の船員が水戸領大津浜(茨城県北茨城市)へ上陸、また、イギリス船が薩摩(さつま)領宝島(鹿児島県十島村)に来航して略奪をおこなうという事件は文政七年に起こっている。このような緊張感のなかで幸貫は挙藩軍事体制の構築をめざすのである。そして、松代藩を「世の中にも指折りの、武門には一、二と劣り申すまじく家柄」(文政七年「御触書」『大平喜間太収集文書』長野市博蔵)と認識している幸貫にとって、挙藩軍事体制ができるか否かは藩の存在にかかわる問題であった。