真田幸貫(ゆきつら)は天保十二年(一八四一)、水野忠邦(ただくに)を首座とする幕府の老中となる。幸貫の老中就任は水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の推挙(すいきょ)によるといわれるが、斉昭はこの幸貫と、松浦静山(まつらせいざん)(肥前平戸(ひらど)藩主)、大関括囊斎(かつのうさい)(増業(ますなり)、下野黒羽(しもつけくろばね)藩主)とを三益友として尊敬したという。このほか幸貫は島津斉彬(なりあきら)(薩摩藩主)・細川斉護(熊本藩主)・鍋島斉正(なりまさ)(直正、佐賀藩主)などとの交わりも密であったが、幕臣川路聖謨(かわじとしあきら)や水戸藩士藤田東湖(とうこ)などの開明的な、また現状変革を志す武士たちにも高く評価されており、斉昭との交流も藤田東湖の斡旋(あっせん)によるといわれる。幸貫は「賢君」との誉れが高かったのであった(埴科郡教育会編『感応公と象山先生』、大平喜間多『佐久間象山』、以下佐久間象山については後者によるところが多い)。
幸貫が老中に就任する二年前の天保十年、清国でイギリスとのアヘン戦争が勃発(ぼっぱつ)し、同十三年には香港(ホンコン)が割譲され、上海(シャンハイ)・厦門(アモイ)・福州(フーチョウ)・寧波(ニンポー)が開港されるなど、イギリスの軍事力を背景にした清国での橋頭堡(きょうとうほ)の確保は、大名や武士たちに深刻な危機感をあたえた。こうした情勢が、藩の軍備を増強し、佐久間象山やのちにわが国のフランス学の先鞭(せんべん)をつける村上英俊(えいしゅん)などの人材育成をはかるなど藩政を率先して推進していた幸貫を幕政に登場させたといえる。また、幸貫の幕府の寛政改革などを理想にした藩政、すなわち基本的には封建道徳を強化して藩体制を立てなおそうという政治姿勢が、水野忠邦のそれと一致していたということも、幸貫が老中に登用された理由であった。
幸貫は老中に任じられた翌天保十三年、土井大炊頭(おおいのかみ)(利位(としつら)、下総古河(しもうさこが)藩主)とともに海防掛に任命された。この年の七月に、幕府は文政八年(一八二五)に出した異国船打払令(無二念(むにねん)打払令)を撤回して、「薪水(しんすい)等不足にて帰国致し難き向きへは薪水・糧食を給すべし」とする方針を打ちだしたほか、同年九月には諸大名に海岸防御(ぼうぎょ)のために大砲を鋳造することを命じた。さらに浦賀(神奈川県横須賀市)と下田(静岡県下田市)にそれぞれ奉行をおき、新たに羽根田奉行を設置し羽根田沖(東京都太田区)に浮(うき)砲台を築き、新潟を幕府の直轄として長岡藩に固めさせ、蝦夷地(えぞち)に砲台を築いて北海の守りを固めるなど、つぎつぎに新たな海防対策を打ちだしたが、これらはいずれも幸貫の提案によるところが大きいといわれる。
しかし、天保十四年閏(うるう)九月に水野忠邦が上知令(あげちれい)などによって失脚すると、幸貫は御勝手御入用掛に任命されたが十二月にその任を辞し、さらに翌弘化元年(一八四四)五月には老中そのものを辞して幕閣から退いた。幸貫の本領とする海防策は大幅な現状変革をともなうものであり、現状維持的な考え方をもつ幕閣に支持されなかったことが辞任の大きな理由であったと考えられる。
ところで、幸貫の対外認識や海防策は、老中の就任とともにかれの顧問に登用した佐久間象山の海外事情の調査や意見具申によるところが大きかった。両者の親密な結びつきはここからはじまったといってよい。また、幸貫の海防掛就任以降に松代藩の軍備の洋式化が大きく前進しており、幸貫の老中就任は松代藩の軍事体制を大きく転換させる契機ともなったのであった。