佐久間象山は文化八年(一八一一)の生まれで、鎌原桐山(かんばらとうざん)に経義(けいぎ)・文章(もんじょう)などを学んだほか、町田源左衛門のもとで会田(あいだ)流の和算を学び、天保四年(一八三三)には江戸に遊学して佐藤一斎(いっさい)に詩文を学ぶなどした。天保十年にはふたたび江戸に遊学して、神田阿玉池(かんだおたまがいけ)に象山書院という塾を開いた。藩内の役職としては、天保二年に藩世子の近習役となり(すぐに辞す)、同六年には「御城付月次(つきなみ)講釈助(すけ)」となり、幸貫が老中に就任した天保十二年には江戸藩邸学問所頭取(とうどり)となっている(同年十二月に頭取辞任)。
この経歴から、佐久間象山はもっぱら学問に没頭していた学者であったかのようにみえるが、時世を鋭く見据えて対処しようとした行動的な学者であって、志士にして学者であったといってもよい。
さて、幸貫の顧問に任じられた佐久間象山は、箕作阮甫(みつくりげんぽ)・鈴木春山らの洋学者と交わって海外事情を研究して、天保十三年十一月に「感応公(幸貫)に上(たてまつ)りて当今の急務を陳(ちん)ず」といういわゆる海防八策を提出した。その名のように八ヵ条におよぶもので、概要はつぎのとおりである。
一諸国海岸要害の所には砲台を築いて平常大砲を備えておくべし、
一オランダ交易に銅を使うことをやめて、その銅で数百千門の大砲を鋳造(ちゅうぞう)して、諸方に分配すべし、
一洋式の堅固(けんご)の大船をつくり、江戸御廻米に難破船がないようにすべし、
一海運取り締まりには相応の人選をして、異国人との通商や海上の諸問題をきびしく糾(ただ)すべし、
一洋式の船艦をつくって水軍(海軍)の駆け引きを習わせるべし、
一全国津々浦々にまで学校をつくり、愚夫・愚婦までも忠孝・節義を弁(わきま)えるようにすべし、
一御賞罰を明らかに、御恩威を顕(あらわ)し、民心愈々(いよいよ)団結するようにすべし、
一貢士(こうし)の法を起こすべし、
この献策から明らかなように、軍備は洋式を採用することをうたっているが、学校は封建道徳を浸透させるためであり、民心の統一も御恩威などによっておこなうべしとするなど、封建反動的な体制維持を主張していた。軍備は洋式化で体制再建は封建的というこの考え方は幸貫と共通しており、そのことが幸貫が象山を重用した大きな理由であったと考えられる。
このころ象山は、金児(かねこ)忠兵衛(伯温)や河原衛守(えもり)などの松代藩士とともに、「高島流洋式砲術教授」でもあった伊豆韮山(にらやま)代官江川太郎左衛門(坦庵(たんあん))に入門したことを契機に西洋砲術に傾倒したが、渡辺華山(かざん)や坪井信道(しんどう)らと交わったことから蘭学の必要性を痛感して、坪井信道の塾頭黒川良安(りょうあん)や赤沢寛道(かんどう)から蘭学を学んだ。
こうしてかれは弘化元年(一八四四)のころに、ガラスの製造や電気医療機、地震計などを作ったほか、後述する沓野(くつの)村(山ノ内町)など三ヵ村利用掛として洋学の知識をもとにした開発計画をたてたが、嘉永元年(一八四八)には出府して砲術教授の看板を掲げた。豊前(ぶぜん)国(大分県)中津藩士が一時に七〇人、また幕臣の勝麟太郎(りんたろう)(海舟(かいしゅう))が入門したのはこのときである。翌年には松代藩内で金児忠兵衛が鋳造(ちゅうぞう)した五〇斤(きん)石衝天砲(臼(きゅう)砲)の試射をおこない、同四年にはふたたび江戸へ出て砲術を教授し、また松前藩の依頼で鋳造した大砲の試射を上総(かずさ)国姉ヶ崎(あねがさき)(千葉県市原市)でおこなった。いずれの試射でも成功と失敗とがあったが、この姉ヶ崎での失敗のころから藩内での象山批判が表面化していったことについては後述するとおりである。
その後象山は、江戸の防御策や鋼鉄艦による海軍の新設などを幸貫を通じて幕府に献策しようとしたが、採用される見込みなしとして断念した。嘉永五年に川路聖謨(かわじとしあきら)が幕府の勘定奉行兼海防掛となると川路と交流を深めたほか、老中阿部政弘に「急務十条」を提出したが、この献策も採用されるにはいたらなかった。しかし、かれの海軍設置への思いは自分の書斎を「海舟書屋(かいしゅうしょおく)」と名づけたほどで、吉田松陰(しょういん)の密航事件に連座して蟄居(ちっきょ)させられると、その書斎の扁額(へんがく)を門人の勝麟太郎(りんたろう)にあたえて海軍の設置を依頼したという。